下駄ばきにミニシガー
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下駄ばきにミニシガー


二階屋で蝶を飼うよなおとこなり

というのがあった。僕はこれがとても好きだった。たいへん呆けていて、悲しかった。馬鹿な青年の目に青空と流れて行く白い雲が見えるような気がしたから。僕の想像の中ではどう見ても悲しいお話の場面のワンショットだった。そしてこの人はもう死んでいたと、そういう話だった。想像の中の蝶々はどうやってもクローズアップされなかった、衾を取り払った吹き抜きの畳の広間の薄暗い中右から左へ瑠璃の菫がひらひら落ちるようにすっと横一文字に飛んでいる胡蝶だった。そこを着物姿の男がふらふらと鬼ごっこのように後を追い、蝶は欄干を抜け空の彼方にゆっくりと登って行きそれを男が涎を垂らしているかどうかは知らぬがぼうっと見送るというようなワンショットだった。

そのような解説は実はコジツケなのかもしれない。この句(べつに何とよんでもいいが、詩)を読んだときに思い浮かんだのは呆けた青年の目に浮かぶ空だった。そいつから演繹するとどうもこんな話になるらしいという虚事(そらごと)なんだろう。しかし、時間的には故事をつける方が矛盾する。過去に遡って行くから。どうしてだろう。

最初は、「二階屋で」という今ではあまり見られない(?かはどうかはしらない)建築様式がそんな雰囲気を醸しだしているんだろうと思った。そういうものが着流し姿などをイメージさせるのだろうと。ところが、
「二階屋で蝶を飼うよなおとこです」
というと全然ピンとこない。これはこれで面白いのだが、お話が全然違う。自転車でいい年越えた兄さん(サラリーマンでもいい)が帰ってきて、玄関をあがるとトントンと二階まで駆け上がり、息を切らしながら蝶の入った採収ボックスを眺めて、ほっと息をついてにこにこしている、そんな御話だ。映画で言えば、タイトル前の走り出しの一コマという感じがする。

自分で勝手にお話をつくって、それを眺めて、その感じがするというのは、想像のその中の想像の感じとくるわけだから僕は妙な人間だ。でも、そんな感じがする。

「二階屋で蝶を飼うよなおとこだった。」とすると語感としてはあまりよくないのだが、最初の想像に近い感じがでてくる(いつも感じですまないけれど)。その感じが正しいとすると(感じが正しいかどうかどうやったら判るんだろう?そもそもそんな感じが本当に在ったんだろうか?)、僕がこの詩が好きな感じがするという感じには、「二階屋」、「蝶」、「飼う」、「おとこ」なんてのは全て道具立てではあるが、役者(=詩のよさ)じゃない。「なり」一つがイメージの流れを決定していることになる。僕の感じでは、「です」の時は時間が始まって行くのに、「なり」の場合は、時間が過去から始まって来るというより、今の時間と隔たりがあるというより、断絶さえある。(と書いてみて、ああ、なるほど死んでしまったおとこなんだろうと気付いた。)ところが、この「なり」は過去じゃない。

こういう違和感が手伝って辞書を引くことになる。つらつら辞書をみるに僕の解釈では断定ではなく伝聞ということになる。
「二階屋で蝶を飼うよなおとこである/だったそうだ」
「そうだ」を「と言われている」というように置き換えられるなら複文構造になり話法になるから僕の知っている言語としては話はこじれる。古典日本語を僕は理解していないので識者の方に教えを請うしかない。ひとまずそう思っておこう。

ほう、「なり」にはこんな伝聞の意味もあるのだろうと驚いた。驚いたのは「なり」に驚いたんじゃない、「自分」にだ。
二階屋で蝶を飼うよなおとこなり
二階屋で蝶を飼うよなおとこです
二階屋で蝶を飼うよなおとこだった
と三つ並べて、これがなんか違うと思う人があれば僕は割に普通だと思う。そうだとすると、このなんか違うなあという感じを僕は「なり」に持っていて、それは伝聞と説明される感じだということになる。うまく説明はできないけれど、かなり微妙な感じの違いが解って使える言葉の範疇に入る。僕はそういう言葉は現代語なんじゃないかと思う。そんなのは分類上というよりも政治政策上の問題で興味がないが、もう日本に人生の半分以上もおらず、読み物といい、日本の古典などよりも外国語の方が多いだろうと思うこんな自分もこんな語感があるのかと驚いた。それで僕は下駄ばきにミニシガーなんぞ咥えてんだなと。

早速、孤蓬さんからコメントをいただいた。

>二階屋で蝶を飼うよなおとこなり

>「なり」一つがイメージの流れを決定していることになる。

>つらつら辞書をみるに僕の解釈では断定ではなく伝聞ということになる。

残念ながら、文法上、この「なり」は伝聞ではなく断定です。
伝聞の「なり」は、活用語の終止形に接続し、それ以外の活用形や体言に接続することはありません。
一方、体言や活用語の連体形に接続するのは、断定の「なり」です。
この句の場合、「なり」は、「おとこ」という名詞、つまり体言に接続しているので、断定の「なり」ということになります。

伝聞「なり」と断定「なり」の用例としてよく引用されるのが、紀貫之の土左日記における次のフレーズ。

>をとこもすなる日記といふものをゝむなもしてみむとてするなり

冒頭の「をとこもすなる」の「なる」は伝聞「なり」の連体形、末尾の「するなり」の「なり」 は断定「なり」です。
「すなる」の「す」はサ変動詞「す」の【終止形】で「するという」という伝聞の意味、「するなり」の「する」は同じサ変動詞「す」の【連体形】で「するのです」という断定の意味です。

ご参考になれば幸いです。
失礼しました。


非常に参考になりました。どうもありがとうございます。


散文(批評随筆小説等) 下駄ばきにミニシガー Copyright m.qyi 2010-05-05 16:48:02
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