潮干狩り
salco

ゴールデンウィークの風物詩として、潮干狩りがニュースで取り上げら
れる。
国交省の無策と建設省ならびに道路交通公団の嫌がらせによって、長ら
く鎌倉時代よりも寂れていた木更津も、本末転倒的無用の長物でしかな
かったアクアラインの通行料が大幅に安くなって、さぞかし賑わってい
ることだろう。ETCへの設備投資が前提条件であるにせよ。
ジェネラルが鷹狩りをしエムペラーが稲刈りをしエムプレスが蚕に桑を
食ませる国だ。花見と同様、春の苺、筍、山菜、夏の蝉捕り蛍狩り、秋
の梨もぎ葡萄・紅葉狩り・銀杏拾いと、日本人は時季と採集の取り合わ
せを旬と呼び殊のほか寿ぎ愛でる。自然のありよう、時のめぐりに心を
寄せるゆかしい民俗性のとりわけ強い名残なのだろう。

私も小学生の頃、家族で木更津に行きパンツを濡らしてえらい思いをし
た憶えがある。
中腰では腰椎に負担がかかり長続きしない、しゃがめば楽だがその内に
血行が阻害され、ふくらはぎが痺れてしんどくなるので尻を落とせばた
ちまち海水が浸み込む。どっちつかずの姿勢維持はさしものコサック兵
も疲れるに違いない。
家族6人であさりと赤貝を山ほど採って近所へ配りに行かされた後も、
台所がバケツや空き鍋総動員の磯臭さで満ち、廊下や畳が、掃いても拭
いても幾日かはどことなし砂でジャリジャリしたものだった。今から思
えば、昔から貝類を余り好まないのはその硬い食感に何か違和感を覚え
たからで、それはやはり動物性蛋白質にあるまじき、噛んでも噛んでも
味は失せつつ消え残るという、女性器の外陰部でも食ってるような歯触
りに尽きるのだろうが、翌日も食卓に貝が出される辟易よりも、寧ろ尻
を濡らした不如意だけが未だ記憶に鮮明だ。

たかが潮干狩り、されど潮干狩り。
土用波が立つ前の海水浴同様、これは子持ち夫婦のオブセッショナル・
レジャーのひとつであって、子供にとっても忘れ難い思い出となる。
見渡す限りの干潮の浜に、雲霞のごとき人々が腰を折り膝を引きつけ熊
手で暗色の砂を穿る。茫々と耳に吹きつける潮風と遙かな潮騒が何故か
寂しく、途方に暮れる心細さだったのは、海水で台無しの下着と気分に
加えて多分に飽きもあったろう。
大人という人種は、利得観念に基づき愚にもつかぬ単純作業に嬉々とし
て身をやつすものだ。蟻んこ観察や毛虫採集など高踏な学術的興味に没
頭する子供には解せる範疇にない。しかも孤高の学究に勤しむ理想主義
者は、根性卑賤な落穂拾いの輩に対して甚だ不利な立場にあり、「勝手
にしなさい」と言われたところで、「ああするともさ」と啖呵を切るわ
けには行かないのである。自我の武装整うコールタール期までは、佇立
姿勢でむせび泣きつつパラサイトの身に甘んじ続けなければならない。

あの日のようにうららかに晴れた今日、潮干狩りに出掛けた家族はあさ
りに砂を吐かせて今夜は贅沢な潮汁と炊込みご飯か皿に大盛のボンゴレ
・ビアンコか、コック役が遠出で疲弊していなければ、そんなメニュー
にありつくのだろう。
スーパーで買えば1パック2〜300円で済むところを2kgの採掘権
に1400円払い、その2kgの重量の、恐らく60%近くは殻が占め
るという事実以前に、往復の交通費、食事代を加算すればどちらが損か
は自明であるにせよ、地元漁協が早朝にばらまいた貝の幾たりかと、一
望潮の引いた海浜での半日を心に持ち帰り、こうして40年近くが経っ
た今も尚、カルガモの如く子を引き連れ遠路出かけた今は亡き親への感
謝や濡れた尻と痺れた下肢の悲哀がしっかりと残るのだから、潮干狩り
けだしおそるべし、ゆめゆめ侮るなかれ、である。


散文(批評随筆小説等) 潮干狩り Copyright salco 2010-05-05 12:07:49
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