機は熟している、はずなんだけど。
佐々宝砂

私かて10年前の文章を発表したくなる気分のときはある。そして実際にお蔵から引っ張り出してきたこともある。しかしいまそんなことやろうとは思わない。そんなまどろっこしいことやってられっか。世の中はすでに変わった。知らんまに変わった。もはや昔を懐かしんでる場合ではない。事態は急を要するのである。

と書きながら、私は、「なんて私の文章ってテンポがよいのかしら」と一瞬思ったりするが、それは私が旧態依然とした過去の遺物だからである。私の文章は七と五のリズムからはみださない。字数の問題はなく拍数の問題である。わからん人はわからんだろうからほっとく。わかる人は、考えてみてほしい、たとえば私の文章と村上春樹の文章のリズムがどんなふうに違うかということを。

とにかく文章のリズム、テンポ、そんなものだって10年前とは違うのだ。これだけ世の中がネットで繋がれ、ケータイは電話と似て非なるものとなり、iPadだって発売されちゃうのだから、詩の世界が10年前と同じでいいわけがない。もちろん変わらぬ部分があったっていいし、そういう変わらない部分はとても大切なのだけれど、しかし。

紙の本は滅びないだろうけれど、いずれ一部好事家のものになる。すでに音楽CDがそのような状態にある。アルバム単位ではなく一曲ずつ切り売りされるのが普通になっている。文章だっていずれそうなるだろう。あるていど長さのあるものをまとめたコンセプトアルバムのようなものではなく、手軽にちょっとだけ読むことのできるシングルのような文章が売れるようになるだろう。ていうかすでにそういう状態だ。ケータイ小説がこれにあたる。

この状況は詩にとっていかなるものか。是非はさておき考えれば、詩は、単純に考えて小説より短いことが多い。短さ、圧縮性、意味上のデジタルな飛躍は詩のお得意であり、それはもしかしたらこの時代にとっても似つかわしいものである。

機は熟している、と思うんだけれど。


散文(批評随筆小説等) 機は熟している、はずなんだけど。 Copyright 佐々宝砂 2010-04-21 06:47:26
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