写真のこと
「Y」



「ちょっと済みません!」
 不意に、後ろから声を掛けられた。
 振り返ると、ベビーカーと一緒に三十歳前後の女性が立っていた。隣にも、ほぼ同年代の女性が立っている。二人の顔つきは似ていた。
「今、撮りませんでしたか? 写真」
 女性の視線は、私が右手に携えているコンパクト・カメラに注がれていた。
「いや、撮ってませんよ」
 平静を装いつつ、私は静かに答えた。
「だけど、すれ違いざまに、この子の顔にカメラを向けましたよね」
 今度は私の顔をはっきりと見ながら、女性は言った。声がすこし震えていた。私はサングラスを顔から外した。
「……向いたかもしれませんが、撮ってはいないですよ」
「じゃあ、見せてもらえませんか」女性は私のカメラを見ながら言った。
 一瞬、女性の言葉の意味を理解することが出来なかった。
「ああ、これはフィルムなんです。デジタルじゃないので」
 動揺が、女性の顔にさざ波のように広がる。だが、即座に立て直した。
「だけど、向けましたよね? カメラを。こういう世の中だし、困るんですけど」
「じゃあ、どうすればいいんですかね」
 ベビーカーに乗った男の子は、我々の押し問答を、興味深そうな表情を浮かべながら眺めていた。女性の隣に立っているもう一人の女性は、私の顔を直視してはいたが、終始無言だった。
 今から数ヶ月前の、新宿駅前でのことである。結局私は、自分が怪しい者ではないということを示すために、運転免許証を彼女に見せ、電話番号を教えた。
「いや、本当に済みません、これから気をつけます」
 別れ際、私は紳士的な笑顔を作って彼女らに会釈した。母親は、引きつってはいたものの、きちんとした笑顔を私に向けてくれた。疑念を解いてはいないけれど、私が自身の素性を明かしたことで、警戒のタガを一段緩めたようだった。

 私は、彼女の子供であるベビーカーの男の子を、すれ違いざまに撮影していた。
 まだ現像をしていないので、うまく撮れているかどうかは分からない。

 写真を撮るようになった最初の頃から、主に、人物を撮ってきた。
 肖像写真ではない、歩道を通り過ぎる人々の顔である。
 使うフィルムはモノクロで、現像も紙焼きも、すべて自分で行う。デジタルカメラは持っているが、普段使うのは、昔ながらのフィルム・カメラである。
 最初は、車の中から人の顔を撮っていたが、だんだんと、遠くの被写体を追うことに満足できなくなってきて、路上を歩き回って人の顔を撮るようになっていった。
 人の顔は撮っていて飽きない。顔の表面には、その人がそれまでに辿ってきた人生の航跡が刻まれているように私には思える。単なる肖像写真は、私が最も撮りたいと考えている、被写体の生きざまが、その顔の表面から消滅してしまうので、私の関心の外にある。
 街で人の顔を撮るのは、肖像権の侵害にあたるらしい。将来、誰かから法的手段に訴えられる可能性も無いではない。この問題については、実際に訴えられたときに考えようと思っている。
 人しか撮らないという決め事は自分の中には無いので、建築物なども撮っている。写真は事物を記録的するという特性を持っているけれど、被写体を記録しようという意図は、特に無い。
 以前に何かの本で目の当たりにした、日本の超能力者(たぶん清田益章だったと思う)が写したとされる念写写真の記憶が、いまだに脳裏に焼き付いている。
 東京タワーと思しき塔が中央にハッキリと写り込んでいて、周囲をビルが取り囲んでいる――そんな映像である。
 一見したところ、普通のモノクロ写真と、何ら変わるところのない、ありふれた写真である。
 だが、つぶさに観察すると、周囲を取り囲む建物や、塔の細部が、この世のどこにも存在しないものであることが分かるのである。
 近頃、自身の街での撮影行為に関して思うときに脳裏をよぎるのが、この怪しい念写写真の映像である。
 対象を内面に置いているものと外界に置いているものの違いはあれ、写真としての在りようは同じであって、むしろ、どうかすると、怪しげな念写写真の方が、より、写真というものの核心に迫っているような気さえするのである。
 普通、「良い写真」というと、どんなものをイメージするだろう。
絶妙のシャッターチャンスとか、興味深い被写体とか、そんなところか。
 そういったものに対してシャッターを切る、という行為が目的になってしまうと、撮影者自身が、その目的に欺かれるような事も起こるのではないだろうか。
 シャッターチャンスや被写体をものにするかどうかが、撮影行為の良し悪しを決めてしまう、といった具合に。
 だが、自身の知覚の記録として写真を作っているのだと考えるのなら、シャッターチャンスであるとか興味深い被写体であるとかいった事柄は、必ずしも重要な要素では無くなってくる。被写体に、必要以上に拘泥するのは、不毛なことだ、という具合になってくる。
「外界の対象を記録する」のと「自身の知覚を記録する」ことの違いというのは、表面上には現れてこない。「念写写真」などというものを写せる人は、普通はいないわけだし。
 しかし、写真に向かう姿勢が、全く異なるものになってくるのではないか。
 私自身の実感を言えば、写真に写っているものは、単に現実世界を写し取ったものではない、というものだ。撮影者の表現行為が具現化したものかといえば、そうした面もあるけれど、それがすべてではない。印画紙に写りこんでいるものは、「写真的世界」であるとしか、言いようがないような気がする。
 
 昨年の、6月頃のことである。
 当時私は、通勤途中の車の中から写真を撮ることを日課にしていた。
その日はたまたま到着が早すぎたために、職場の近くにある駅の周辺に車を走らせながら、視界に入るものを撮っていた。
 繁華街で、飲食店やホテルも多い場所である。なにか面白い風景は無いかと、四方に視線を走らせながらバス通りを走らせていた。と、ある一匹の犬が、視界に飛び込んできた。
 歩くのもおぼつかないほどの幼犬である。路地裏で母犬に護られているところを、何かのはずみで往来によろめき出たような、そんな感じだった。
 反射的に数枚撮った後、
 「こいつは危ないな」
 と思う。
 抱き上げて、路地に戻してやれれば、ともチラリと考えた。
 バックミラーに目をやると、信号が青に変わり、何台もの後続車が近づいてくるのが見える。遠ざかる子犬の影を目の端に残しつつ、その場を走り去るしかなかった。
 並行する通りに入ってぐるりとまわって元のバス通りに戻ってきたのは、まだ時間が余っていたせいもあったが、やはり犬のことが気になっていたせいである。しかし、犬の無事を祈るような気持ちだったわけではなかった。あの動きでは、おそらく助かるまいと思っていたのだ。
 犬は、やはり死んでいた。
 息絶える死に方ではなく、瞬時に生が消え果てるような、そんな死にかた。
 それを目の当たりにしたときの気持ちを説明するのは難しい。
 後悔はあった。しかし、哀しみとは違うものを自分の中に見た。
 その夜遅く、私は家に戻った。そして、カメラから取り出したモノクロのネガを現像した。
 ネガの中に、犬の姿はあった。この世から消え果てる数分前のその肢体が、明瞭な影となって、ネガの中に映り込んでいた。
 子犬を撮影した経験は、自分にとっては大変印象的なものだったが、撮影から数ヶ月が経過した今、あの経験が私に与えてくれたものは、私の中で変化を遂げたように思われる。現在は、被写体である犬が、撮影した直後にこの世から消滅したという事実は、撮影者である私にとっては劇的なものだったけれど、そのことは、ひとつの象徴的なできごとに過ぎないという風に思っている。
 結局私は、このネガをプリントしていない。つまり、写真をつくる行為を留保している。死んだ子犬の記憶は、ネガという物質に形を変えた状態で、一枚の写真として蘇生することのないまま、私の部屋の片隅に存在し続けることになるのだろう。
 
 写真を自分の手で作るようになってから、数年が経過している。近頃は、死ぬまで写真にこだわり続けていくのだろうという確信が日に日に強くなってきているような気がする。老いた者は、迫り来る自身の死を頭の隅に感じながら生きていく。私にとって、写真に思いを馳せることが、自身の残された生を感じ、やがて自分の身に訪れるだろう死を思うことである。


散文(批評随筆小説等) 写真のこと Copyright 「Y」 2010-04-18 01:41:06
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