走り書きメモ
結城 森士

「敗者にかける言葉はない」

というが、誰か権威のある人の名言をそのまま自分の思考や考えに導入しているようでは、その人は単に記号にしがみついて自分を正当化しているだけの臆病な人間だ。
本人は臆病な人間で良いだろうが、世の中が、人間は臆病で当たり前だと認めてしまえば、偽善が蔓延ると思う。

そもそも、勝者と敗者というように二項対立的に記号化してしまうところに疑問を持つべきだ。
あるのは事象だけだ。後付の概念を「図式化」して、勝者と敗者に区分するのは、記号化の一つだ。

人間は、自分という存在に意味を持たせたいという欲望を持っているから、物事にいちいち意味づけをしたがる。
だから、後付の図式化をして、抽象的な記号化をはかるのだ。
勝者と敗者という概念を用いて、人は道徳や善悪を定めようとする。
しかし、善悪というのも安易な二項対立だ。

事象しかないし、現実しかないのだ。そこに信念や概念を付随させる必要はない。



「あるのは事象のみであって、後付の概念など、ただのかっこつけだ。もしくは、現実を見ずにすむようにするための言い訳だ」

「勝者と敗者を図式化することは、"思考の記号化"である。"概念の図式化”とは"思考の言語化"である。それは、構築作業である。」






作られた構築から脱しようとした。
だが、それでは生きていけなかった。
おれは言語と論理性を失いつつある。
言語化、記号化する流れの中に再び立ち返る必要がある。伝えるために。

しかし、おれが記号から脱却しようとしてそこから学んだことは…?得たものはなんだったのだろう…?


散文(批評随筆小説等) 走り書きメモ Copyright 結城 森士 2010-04-13 08:07:47
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