イン
蠍星

ああ、だからニンゲンは
あらそいをやめないのだ。
とそう気づいたのは思春期のころでした。

なにゆえに
陰であるのか。
と、なやんでいたのです
サインコサインタンゼントの合間に。
夏でした。
ブリーチした髪がパサつくので
ぼくはチョークをすり減らす速度で
たましいをすり減らして居たのでしょう。

陰。陰。陰。
ぼくらののうみそのうちがわなんて、
そんなものばかりでした。
ぼくらのシナプス、
そんなもので焼切れそうでした。
たとえばあのコのタアタンの布切れのなかに
宇宙。
ぼくらはそうして純情のまま
夏を
終えました。

なにゆえに
陰であるのか。
カイボウ学の教科書は廉いポルノのように
ぼくらを痛めつけました。
あのコはセックスのはなしに眉をひそめたけれど
歯をみせて笑うのです。
くちのなかは粘膜がおおっていて、
舌がうねって、しめっていて、あたたかくて、
もとめれば唾液があふれ、
のみこむ。
くちとあそこの場所をとっかえたとして
ぼくらはどちらをかくして
生きていくのが正しいのでしょう。
それでもあしのあいだにモザイクがかかるなら
ぼくらが恨むべきはおとなたちでなくて
ぼくらのDNAであったでしょう。

だっていのちを喰うんだろう?
いただきますって

陰とか、淫とか、
そんなくだらないことばでくくられた
inとか、インとか、
そんなことばかりがぼくらの日常で
いち たす いちが
さんになることより
いち たす いちが
いちになることのほうが
きれいでなくてはいけない世界に、
ぼくらは生きていました。
しろいシャツは汗で素肌をすかすので、
ぼくは飽きもせずあのコの背中に欲情して
居ました。

みんながえがおで、
いただきます。
と、さけぶことを強制された教室で、
ぼくらは
夏でした。
ああ、だからニンゲンは
あらそいをやめないのだ。
とそう気づいたのは思春期のころでした。


自由詩 イン Copyright 蠍星 2010-04-04 19:57:57
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