悲しいことがあると僕はいつも
花形新次
私がちょうど22よりひとつかふたつばかり年が若輩者だった頃、世の中では1980年代の世紀も終わりをつげるかどうかの瀬戸際だったかと存じます。
私は当時イヤでイヤで体重100kgを越す典型的な拒食症だったのですが、歳の離れた父が絶対に行かないといけませんと仰いますし、腹違いの母も晩ご飯はイシイのハンバーグにしなさいとのたまうものですから、とある余り利口者は集わない学校の理工学部(もしよかったら理工学を学んでみては?的な学部です。的なだって、今風なんだから〜。)で、日夜あるいは主に明け方、理工学について舌なめずりしておりました。
熱力道山学やらこのところ良い機構ですわねえ学やら、チンプンカンプンの授業(正確にはチンプン漢文と言うくらい、漢文の女教師に欲情していたんです、彼ったら。)が山のようでもあり、いつかなどは、先生に向かって「おまえのことは、おまえの髪型と同じくらい嫌いだ。」と思い切って優しく語り掛けましたが、(だって先生は40前の洒落た男でしたが、髪型というより、髭を生やしているのが嫌いでした。)
先生は「好きにしたまえ。」と仰られて、愛車のフォルクスワーゲンに乗って、近くでやっていたオールスター大感謝祭を見に行きやがりました。
先生はいませんようになりましたことで、私以外の我々は、一斉に、私を非難しましたが、それ以来、先生は、なしの礫になってしまいました結果、逆に私は、私を除いた我々から重宝がられました。
学期末に、その先生の机の中から見つかった私の通知表は、AかあるいはQだったらよかったかもしれません。
そうこうしている間も、私は面白い字の集合体を書いてお金儲けがしたいと考えていたところですが、そんな生来の才能はありませんようでしたこともあって、学校にもういなくてもいいよと言われると、兄譲りの爆弾犯としての血が騒ぎそうでしたから、普通に卒業証書を頂く決意を固めた次第です。卒業写真のあの人は死んだような目をしてる〜。
卒業後は、理工学を学んでいましたって何回言わせりゃ気が済むんだ!なので、その道を極めるために片眉剃りで山篭りしなさいと、わりと歳の近い父は仰りましたが、私はやっぱり艶っぽい字の集合体を書いて自分でも変なことができればいいなあと考えていたところなので、「その意見には、承服できかねる。」と機会があれば崖から突き落としてやろうと、虎視眈々とねらっておりました。
しかし、最後には、やはりお父上やお母上やさなえさんの悲しい顔が、とても悲しく思えたので、悲しい思いをさせるぐらいなら、いっそ私が悲しむぐらいでちょうど良いと思いましたので、私が悲しむことに致しました。さなえさんも道連れです。
まあ、色々あったんだけど〜、いいじゃん、そういうことで〜。
私は縁あって、相撲取りの手相を見て、その相撲取りがどこまで番付を上げられるかを占うという、所謂部屋付き占い師として、てっぽう稽古で手のひらツルツルの毎日です。