並木橋のひと
恋月 ぴの

高架線の流れに押し戻されつつもドア際へ体を寄せれば
やがて天井桟敷の建物が左手に顕れる

夜勤明けの尻ポケットには馬券の束
そして耳に挟んだ赤鉛筆

「穴場に手を突っ込んだ勝負馬券は当然にして
神様の二重丸を外して買ったものさ」

ふらり散策した古書街で買い求めた数冊の本のなかに
いつの間にやら紛れ込んでいた一冊の本

あのひとが贔屓にしてた寺山修司の戯曲集
後期の作品ってことになるのかな
身毒丸
とか青ひげ公の城が収められている

へえ、「しんとくまる」とは心底読み難いんだけどね
ぱらぱらとページをめくれば
不器用だったあのひとの咳払いとか思い出して
思わず後ろを振り返ってはみたのだけれど

あのひとが握りしめていたのは果たして当り馬券だったのか

書を捨てよ町に出ようと寺山修司に呼びかけられ
それでも書を捨てきれなくて
簡易宿所の三畳一間でお酒に溺れた日々

馬券売り場から手のぬくもりが絶えて久しいように
自動改札を抜ければステンレス車両の鈍い輝き
並木橋交差点近くを流れる渋谷川は宮益橋からは暗渠となって

無明の奥底
遡ろうにも遡り得ぬその先で私達を待ち受けているもの

今となってはいくら目を皿のようにしても
天井桟敷の建物なんて並木橋界隈に見出すことはできず
あいも変わらぬ品の良さそうな人々を乗せたまま
東横線各駅停車は銀色の放物線を描いて軋む



自由詩 並木橋のひと Copyright 恋月 ぴの 2010-03-22 17:33:26
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