こいびと
はるな

 覚えている。
 まつげ。くちびる。あごひげの、長いところ、みじかいところ。つむじ、寝ぐせ、大陸みたいな背中。せまいキッチンの、ほこりをかぶったトースター、使われたことが一度もないみたいな炊飯器。ひとつだけのガス台を磨いて、スープをつくった。たまねぎを器用によけて食べる手元。完璧なお箸の持ち方をすること。何度も何度も一緒に食べたね。わたしたちを。食事みたいに、お互いのからだを食べて、飽きれば眠って。寝顔は穏やかで、大晦日に行った由比ヶ浜の海みたい。人ごみのなかでしっかり手をつないで、甘酒が苦手なわたしにココアを買ってくれる。あなたの背がたかいから、いつも見上げていたよ。顎のラインを、いちばんくっきりと覚えている。正確に思い描ける。その骨のかたちも、関節の仕組みも。
 あなたの部屋にあったもののことも、とてもよく覚えている。そこにあった空気も、湿度も、視線の温度も。すぐにわかった。他のひととは違うこと。すぐに好きになると思った。そしてすぐに好きになった。ギター、甘いコーヒー、積み上げられたディスク、笑えないコメディ映画、ファイヤーキングのガラスの模様、青い小人の人形。その横でただしい温度で笑うあなたのこと。茶色の窓枠、すこし短いカーテン、きれいなかたちで燃え尽きるたばこ、すぐに溶けてしまう氷、わたしたちがいつも汗ばんでいたから。部屋からは道路と、建物と、街灯と、わずかな空が見えた。うすねずみ色で、つまらない顔の空。あなたが出て行って、そしてそこから帰ってくるまちが見えた。四角く切り取られたそれらを、でも、あまり嫌いではなかったよ。ほかの部屋から見るまちとはぜんぜん違っていた。あなたの部屋からそとを見てるのは、あたたかいものに背中を抱かれているようで、怖くなかった。
 あなたの、煙草をもつ指の角度や、わらうときの喉仏のあの動きや、わたしに触れる腕のちからを、こんなにくっきり知っているのに、あなたの顔は、どうだったのだろうか。わたしが、ほかの人とも肌を合わせるから、あなたは泣いたね。誰と何度合わさっても、ほかの人とでは、温度はすぐに流れさった。まるで最初からそこになかったみたいに、すべてがまるで本当じゃないみたいに、きれいに流れ去った。まつげの角度なんて、指の温度なんて、触れ合った動きなんて、そこになかったみたいに。何色のシーツだったかもわからないよ。それなのにあなたは泣いたね。わたしは窓を見ていた。窓のそとに見える道路や、建物や、街灯をみていた。それらはわたしのものじゃなかった。窓のこちら側の、茶色い窓枠も、ギターも、青い小人たちも、さめていくコーヒーも、火をつけたばかりの煙草も、なにもわたしのものじゃなかった。わたしの指も、つめも、髪も、脚も、皮膚のぜんぶ、髪の先まで、わたしのものじゃなかった。もちろん、あなたも。
 抱き合ったときのここちよさや、世界のすべての不安がなくなったみたいなやわらかさや、髪をかきあげてもらうときに身体に風が通るような心地や。わたしはそういったものはきっと忘れないけど、あの窓からの道路や、大晦日の人ごみや、トースターの色は忘れちゃうね。あなたの色も形も、温度も重みも、全部忘れちゃうね。だから、あなたもわたしを忘れていいんだよ。
 そしていつか、新しく出会ったら、そのときはまた同じように恋に落ちようね。あの海みたいな。


自由詩 こいびと Copyright はるな 2010-03-18 02:25:10
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