仲 仲治さんに「鵜飼千代子さんのコメントを読んで」でご指名いただき、恐縮至極ではございますが、こちらに書かせていただく運びとなりました。文書リストのタイトルに自分のフルネームが出ているのを見た時は吹いたのですが、面白かったです。(2chで、わたしのハンドルのスレッドを立てられた時は不愉快でしたが、何も書く気がしませんでした。)
鵜飼千代子さんのコメントを読んで / 仲 仲治
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=206209
ヌードモデルということを考えたときに、写真家と、彫刻家、画家、等のモデル(デッサンのモデルでなく)というのは、違う覚悟が必要なのかなと考えていて、詩人は別のテイストの詩を書けば書くほど像を結ぶから、まこと「裸人」とはよく言ったものだと思うわけです。
「仲 仲治さんは常々『他の人ももっと書いたらいいのになぁ』と書かれているので、これは自然な流れと捉えるのが適切で、鵜飼千代子さんがそこでいい気になって出て行くのは、どうだろうか?」という感慨もあろうことは、了承済みです。
おつきの女の子には、
「それで、脱いじゃったの?仲 仲治さんが『鵜飼千代子さんのコメントを読んで』で、『鵜飼千代子さん』って、タイトルも入れて6回も書いてくれたから、気持ちよくなって脱いじゃったの?わたしが『抱いて』って何度もお願いしてもまるで耳が聞こえない人のようなのに、一緒にお布団に入っていても、ウエストとおしりの間のとこらへんを、『とん、、とん、、とん、、』って、呼吸のリズムでやさしく叩くものだから、なんだか安心して眠ってしまうと、目が覚めたときいつだってどこかに行ってしまっているし!わたしが脱ごうとすると、鳴ってもいない携帯をおもむろに開いて『急用!』ってダッシュで逃げちゃうし、わたしに裸を見せてくれた事なんて無い! 想像するの。。。あなたの逞しい胸筋、割れたお腹、むしゃぶりつきたくなるような上腕二頭筋、、、なのにちっともわたしには見せてくれなくて、仲 仲治さんの前で脱いじゃうなんて!『だから今書いてるでしょう?』って、わたしにじゃなく、仲 仲治さんにでしょう?!見た人全部が、鵜飼千代子さんのおへそはここにあって、肩甲骨はここ、ひざは、ひじはここ、ってわかっちゃうんだよ?、、、わたしを見て!」
じゃーん!!!
彼女は羽織っていたトレンチコートを投げ捨て、わたしの行く先を塞ぐように仁王立ちしたのであった。
ということになりかねない、ことはないですね。
ここまでは、「鵜飼千代子さんのコメントを読んで」を読んでの感想文です。
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本題に移ります。『「かなしさはかなしみのなかにあるのではなくよろこびのなかにある」に批評めいたことを書こうと思いました。』と仲 仲治さんの『映画「アバター」を見てみた』のコメント欄に書いたのですが、その文中でも「少しつっこんだ批評のような感想のようなものを仲さんの詩に寄せたいと思います。」とだんだん尻すぼみになり、晴れて散文の部屋に投稿する事になったこの文章のタイトルは、『「かなしさはかなしみのなかにあるのではなくよろこびのなかにある」を読んでの感想文」』になってしまいました。
「出来れば、僕の予測の範囲を超えるものを鵜飼千代子さんには書いてもらいたい」と、仲 仲治さんに仰っていただいたのですが、「同じようなこと考えてるなぁ〜」と思いながら常々読んでいるので、「予測の範囲を超える」ようなものは書けないです。とほほ。
わたしが書こうと思ったのは、出されている詩についてなのですが、コメント欄の流れというものもあるでしょうから、別になにか含みのあるものではないけれど、この詩について思ったこと、これは仲 仲治さんの今後の詩作になにか役立つのではないかなというようなことを書きたいなと思った訳です。けれど、散文の部屋に書くほどの、女の子が「むしゃぶりつきたくなるような上腕二頭筋」などというものはないので、コメント欄で十分だと思ったのです。仲 仲治さんは「鵜飼千代子さんのコメントを読んで」で、突然言い出したことではなく、日頃からそうしたものを、自分以外にも「散文として投稿してもらいたい」と書かれているし、ご自分もされているので、わたしも腰を上げたものです。
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かなしさはかなしみのなかにあるのではなくよろこびのなかにある/仲 仲治
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=206150
かなしみのなかにいるひとは
じぶんをかなしいとはおもわない
かなしみのなかにいるひとは
じぶんをかなしいとおもうかわりに
ことばをおとす
そのことばで
みずたまりをつくりたいとねがう
ほんとうのかなしみのなかにいるひとは
じぶんをかなしいとおもったらあわれだから
かなしいとはおもえない
かなしいひとが
いつしかよろこびのなかにいるとき
みずたまりがかなしさという
ことばになる
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「かなしさはよろこびのなかにある」というのが新鮮でした。
タイトルを読んで「本当に?」と思ったのですが、なるほど、過酷な環境に置かれていて
「可哀想」「見るのが忍びない」と端から思われる人達が、その世界しか知らなければ、
辛さはあっても、それ以外知らないのですから、自分を「かなしいひと」だとは思わない
でしょう。そういう時にはたくさん詩も書けるなぁ、書いたなぁと、納得します。「どん
底だ!」と思った時、ソウルメイトに「あなただけは同情しないでくれ」と言ったことが
あるので「じぶんをかなしいとおもったらあわれだから」という部分もわかります。そし
て、最後の部分、
かなしいひとが
いつしかよろこびのなかにいるとき
みずたまりがかなしさという
ことばになる
あぁ、そうだったのか、「かなしさ」のみずたまりがきらきらさんざめいている訳は。と
思いました。光が射したのですね。
気になったのは
みずたまりをつくりたいとねがう
の一行です。「ねがう」のは「かなしみのなかにいるひと」でしょうか、「おとされたこ
とば」でしょうか。「かなしみのなかにいるひと」だと書かれているのだと読んだのです
が、はたして「ねがう」だろうか?という疑問を持ちました。ここは「ねがう」で間違い
ないということであれば、「ねがう」に焦点を当てて読み直す訳で、そういうことかと、
納得もするのですが。「みずたまりをつくりだす」では、言い足りていないのでしょう。
「かなしみのなかにいるひと」を捉える位置をじりじりとずらすと、別の言葉が結ぶ気も
するし、書き足してもいいのではないかなとも思いました。饒舌になりすぎず、モチーフ
を増やしすぎず、「ねがうのか?」という部分が晴れると、もっと好い詩になるのではな
いかなと思いました。
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と、これだけなのですが。どうしましょう。
以前、土曜美術社の「詩と思想研究会」に一度参加したことがあるのですが、その時の講師が一色真理氏で、ニフティーの詩のフォーラムに『「詩と思想」に、ネットで書かれている詩として何編か紹介したい』という話の事情説明をしにこられたことから(選者は奥主榮さん)、名前を知っていたこともあって、「わたしの詩は、どう読まれるんだろう」と「ゆきうさぎ」という詩を持って行きました。自作の詩を持って来た人と講師だけの集まりで、順番に読みながらそれぞれが思ったことを言い、最後に講師のお言葉があるわけですが、わたしの詩には「忘れもしない」というようなことは言われなかったので、可も無く不可も無くというコメントだったのではと思います。全く別のタイプの詩を持って来た女性に「童謡のようですね〜。わたし、童謡のような詩がかけるって羨ましいです。」って、にっこり微笑まれたのですが、この言葉は憶えていますね。名前は忘れましたが。
その後、一色氏が「いいですね。いうことは無いです。」といった方の詩に続いて、「悪い意味でいうことは何も無いです。」という詩を持って来てしまった方が出たのですね。一色氏は穏やかな方なので、「悪い意味でいうことは何も無いです。」と突然言われたら驚きます。常連さんだったので、それだけで理解されたようですし、その日だけ行ったわたしのような人々に、そこまで説明しなくていいと思われたのかもしれません。「悪い意味でいうことは何も無いです。」って、とても強烈な言葉ですから、自分なりに考えているのですが、技巧の面では全く問題がなかったと思います。素晴らしいテクニックで書き上げて、持って来た詩の中身のことだろうとわたしは理解したのですが、書いた方の名前も顔も肝心の詩も忘れてしまいました。わたしが行ったのは一回きりですから、土曜美術社の方は調べることが出来ると思います。その時、「悪い意味でいうことは何も無いです。」と思われる場所に自分のおきにいりは持って行きたくないなぁと、こころに刻んだのですが、ようは、講師のこれまで伝えて来たことと合わなかったということなのだと思っているので、ここは大丈夫かな?というのは、気にするほうですね。
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もう書くことが無くなってしまったので、終わります。
みなさま、ありがとうございました。
2010年3月17日 水曜会 鵜飼千代子