日本むかし話 妖怪糠肉擬
salco
むかしむかし、ここ印旛沼には妖怪ヌカニクギというのがおった。
変な奴での、
退屈のあまり村に来ては気に入った家の表札に手垢をつける。
一体何でそんな事をするのか、
その家の者に尋ねてみても、恨まれるような覚えはないと言うのじゃ。
それより汚された表札を拭かねばならないのだが、
これが何とも気色の悪い色でな、妙な匂いもする。
べたべたして落とすのにひと苦労よ。
他に悪さはしないのじゃが何ともまだるっこしい奴で、
そのでろでろした体のだんだら模様からも判るとおり
潔いのが嫌いなのか、
眉目秀麗な者や志の高い御仁を目にすると寄って来て、
ひと言の詫びも入れずにべたあーっと張りついて来るのじゃな。
甘えたいんじゃろうか、好かれたいんじゃろうか。謎じゃよ。
それで
「ボクチ、ボクチ、トクチ、ヌクチ、ペクチ、モクチ」
と呟くのじゃ。
「何を言いたいのだ、気味が悪いからあっちへ行け」
と言うても、
まるで言い訳のようにでろーん、ぺろーんと体を左右に動かして
聞く耳もあらばこそじゃな、まあ妖怪だから仕方がない。
ついにけったくそ悪うなって、突いても蹴飛ばしても一向にこたえん。
実に不思議な体をしていての、布のりや糠のようにでろでろしておる
から、突いた手は濡れるし蹴った足は重たくなるしで埒があかない。
それで庄屋の幸という、雛菊のように可憐な娘が下総の網元へ嫁ぐ日も
ひょっくり出て来おってな。大事な一人娘を出す心づくしで手間掛けた
そりゃあ見事な打掛けに
「ボクチ、ボクチ」
と張りついたものだからたまらん。
金糸銀糸の唐織にもう手垢がべっとりよ。
慌てて脱がせて江戸まで洗い張りに出すやら嫁ぎ先へ飛脚を走らせるやら
かわいそうに、幸は泣きの涙で臥せるやら婚礼は三月も遅れるやら
大した騒ぎじゃ。
その上、困ったことには
前の年に御狩場が山火事で半分がたのうなってしもうたので、
二年あとの夏には新しいお山へのお通りに村道が使われることになって
おったのじゃよ。
村の者は慣れておるが、殿様のお籠に「ボクチ」やられた日には大事じゃ。
かと言って沼の妖怪じゃもの、無碍にすると祟る。
ああそりゃあもう大変よ、米十石出して隣村も総出で手伝わせ
森を切り拓いての、沼を大きく避けて迂回路を作った。
これがそれよ。
ああ? ヌカニクギか? この辺も今じゃすっかりゴルフ場になって
しもうて、沼もずいぶん土砂が流れ込んで汚れてしもうたからな・・・。
ああ。そうじゃったそうじゃった、去年自衛隊が投網しておったっけな。
災害という話も聞かないので訝しんだが、洩れ伝おうたところによると
極秘任務だったらしい。町長も知らされておらんと言うんじゃもの。
じゃから案外、今頃は国防方面で役立っておるかもしれんな。
いや、あれのへこたれないことへこたれないこと。悪びれもせず
釘でも砲弾でもどんと来いだ。頼もしいのう!
何せ北海道は防衛の要衝じゃよ、駐屯地が四十近くもある。
我が国は北部方面隊に一番力を入れておる。そりゃソビエトはなくなった
が、北方領土問題があるからな。
完