表現手段について;覚え書き
salco
悲劇の色は何色だろう
色など在りはしない
それは叫喚と慟哭だけだから。
しかし悲しみは声をさえ持ち得るのだろうか
肉の塊は自己解説をしない
生きながらコンクリートに塗り込められて
息の根すらあるものか。
どんな人間がその心痛を
直截に表現する手段を持ち得るのか。
そこで17回忌法要の日、
一人息子を亡くした親戚宅の床の間には
“愛別離苦”
と素人習字の軸が仰々しく(明らかに)
叔父の手によって掛けられていた。
アイベツリク?
そんなもんじゃなかったろう?
したり顔の葬式坊主が吐くよな借り物の、
しかもケロケロリクと軽やかな語感じゃ?
と、俗物の猿知恵に興冷めを覚えながらも
いろがみの鎖輪じみた、この低劣な装飾は果たして
我々部外者の持ち寄った哀悼の仮面という偽善を
却って見事に照射するようだったにせよ。
そんな親父の浮薄な知性を
生前あからさまに憎んでいた息子と
そんな息子をもぎ取られ、
はらわたを抉り出されて来た叔母とを
心底憐れに思いつつ
同じく五体を引きちぎる肉親の悲痛を何とか
現在の境地から表現しようと試みた叔父の真意にも亦
偽りは微塵も無い事をかんがみれば
こうして犯しがちな愚を批評する資格など
私にも当然ありはしないのだが
いずれ饒舌は沈黙に命乞いする恥の上塗りに過ぎない事を
何故、70年近くも生きて来て分かっていないのかと
甚だ遺憾に思い、且つ神妙に自戒した事だった。
2004/01/05