貝吹明さんの『【批評祭参加作品】思うこと』を読んで、いまさら思ったこと。

批評祭の貝吹明さんというひとの投稿文がおもしろかったのですが、
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201246 【批評祭参加作品】思うこと〈2〉
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201359 【批評祭参加作品】思うこと〈2〉つづき
そして「次回につづく。(かな)」とあるのですが、もう書かれないのかな。

ぼくも絵に関して似たよーな経験があるというかこれがぜんぜん似てないのですが、、あからじめWeb上でとある絵を、つまり自宅のPCの小さいモニタで見てすっかりワカッタ気になっていたとある絵(の写真)を、じっさいにビジツ館でみて(実物はでかかったです)、すげー!よくワカランけど、すげーーっ!と感じ、圧倒されたことがあります。
しかし。ええと。やはり、国際的な有名建築家が手がけた先鋭的かつオサレなビジツ館で見るオリジナルの絵には、自宅で見るへっぽこコピー(Web上の写真)にはないアウラが宿っとるな〜、とか、そういう話に持っていきたいのではなくて、なぜなら、帰り際にミュージアムショップで買った「展覧会の図録」に載ってる同じ絵(=写真)には、すくなくともぼくが本物の絵から受けたそのすげー「感じ」がちゃんと「あった」から。
つまりぼくの場合これはもう、わざわざ展覧会場内に足を踏み入れなくても、その手前のミュージアムショップまで行き「図録の絵」を手に取るだけでヨカッタわけで(ぜんぜんヨクナイかもしれませんが...)、ええとたぶん、コピーとか複製されること自体の問題じゃない。じゃあ本物の絵、というよりも「図録で見る絵」と「PCモニタで見る絵」の差異はなんだろう、と考えたとき、解像度の問題とか、紙媒体とPCモニタの微細な色温度の違いの問題とか、いろいろ考えられるンですが、何よりもまず、圧倒的に「サイズ」が違うんですよね。。
というかはっきりゆって「自宅PCのモニタで見る絵」は、小さすぎる。「図録」も実物に比べてカナリ小さいんだけど、それ以上にはるかにミクロすぎて、描かれている人物の顔のすらあいまいだ。。むしろ、"そういう表現"になっちゃてる(実物は顔くっきり表現なのに)。。
ここで重要なのは、超縮小コピーされることによって絵がダメなったとかーいうことではない。そーいうことじゃなくて、絵が僕たちに与える、僕たちが見出すことのできるその絵の「性質」そのものがサイズダウンによって劇的に変容したってことだ(顔くっきり → 顔ぼんやり)。たとえば、かつて、劇場用のフィルムを家庭用の正方形の小型テレビ画面で見られることに猛反対した映画監督とかいましたが、今でも(今でこそ)その問題はあって、たしかに100インチのプラズマでみる映画と、ニコ動とかワンセグケータイでみる映画とでは、良いとか悪いじゃなくて、もはや表現として別ものだ(逆の場合も)。
その意味では、「いかなる酷評、非難も甘んじて受け入れますし、いかなる視聴環境で映画を鑑賞されるのもコ人の自由です。しかしながら!50インチ、いや、32インチ以下のスクリーンでご視聴される私の作品におきましては、ショボかった、つまらんかった、くそムービー、感動できひんかった、等々のクレームに対して当方は一切の責任を負いかねます。なお劇場での盗撮は違法行為です。海賊版をネット上にアップロードする等の行為も違法ですが、かくゆう私も仕事中に見るヨウツベが唯一の息抜きです。」的な警告をさりげなく流す監督やアニメーション作家がいてもいいとおもうし、、もしくは、「あなたは18歳以上ですか? Yes / No  いま、あなたの目の前にあるスクリーンは32インチ以上ですか? Yes / No」で、とりあえずYesを選択しとかないと本編を再生出来ない、そういうコンセプチュアルなDVDがあってもぜんぜんいいとおもうし、、よーするにこれは作家がビジツ館での作品の「展示方法」(配置とか光量とか)にこだわるのと同じレベルの極めてまっとうな話だ!

(ハッ)

貝吹さんの散文をよんで、まるでカンケーのない感想をこんなにもたらたらと書いてしまった。。
ええと、そうだ、ヨルノテガムさんもコメントされているよーに一回性の問題もあるだろう。完璧にすっとばして書いてますが、もちろん、絵画を機械的に複製することと、人の手で複製することもまた、別のことだろう(絵画を人の手で複製するとゆうことは、人げんによって一度"表現"されたものを、さらに"表現"しなおすということだ。貝吹さんの知人の絵描きのひとは、自分の描いた絵をそっくりそのまま大きく描き直した結果、「あった」(と感じた)ものが「なくなった」ということですが、やっぱり人の手による複製自体が困難を極めるという問題はまちがいなくあるだろう)。

ただ、しかし、「感じる/感じない」ということだけでいえば、「機械的な複製」にしたって、たとえばお台場にあった等身大ガンダムを、そっくりそのまま同じ素材で100分の1ガンプラサイズに複製し直したとしたら、やはりお台場で等身大ガンダムを見上げながら「感じた」ものは、絶対的に「なくなって」しまうとおもうんです(ふたたびしつこくサイズの話に...。もちろん、100分の1サイズに縮小したガンダムからは、等身大ガンダムが僕たちに対して決して持ちえなかった、また違ったあたらしい「感じ」が見つけられるかもしれませんが)。
監獄やどうぶつ園の檻の鉄格子をそっくりそのまま拡大してしまえば、中にいる者にとってのその鉄格子の意味もまるで変容してしまうように、たとえばある者にとって「絶対的にその向こうの空間へと出ることを拒絶する不可侵の堅牢な壁」が、少しの拡大よって、「断食して痩せ続ければいつかは格子の間をくぐり抜けられるかもしれないけど、、どうだろう。。」とかいう希望や不安になったり、100倍にも拡大すれば、ゴジラならいざ知らず、もはやそこに壁を見る人間やどうぶつはいないでしょう。
で、「等身大ガンダム」にしても、「鉄格子」にしても、目の前の「描かれた絵」にしても、生身の僕たち対して働きかけるいろいろな「感じ」が潜在的に「ある」とおもうんですが、それをそっくりそのまま拡大したり縮小すると、それだけの操作で、僕たちが知覚することの出来る対象物の性質や意味が著しく変容してしまう可能性はあるとおもいます。そして「絶対的にその向こうの空間へと出ることを拒絶する不可侵の堅牢な壁」の「感じ」とか、「断食して痩せ続ければいつか格子の間をくぐり抜けられるかもしれないけど、、どうだろう。。」といった「感じ」が絵筆を握った人げんの身体感覚によって絶妙に表現されている迫真の絵も、"そっくりそのまま"拡大/縮小してしまうだけで、その絵を見る生身の僕たちに対して、また別の意味を持ったものになってしまう可能性はあるのではないかと。もちろん"そっくりそのまま"拡大/縮小してその「感じ」が残せる場合もあると思うし、単純に"そっくりそのまま"拡大/縮小するだけではその「感じ」が消失してしまう場合もあると思うし、別の新たな「感じ」に変容してしまう場合もあると思うし、まったく別の絵でも近い「感じ」の性質を持ってるものもあるかとは思いますが(そもそも人の手によるコピー自体カナリ難しい、ということは前提として)。

で、ヨルノテガムさんの「でもどれでも対象を感じるか感じないかは 個人的なこと個別的なこととは思えます」というコメントはもちろんそうなのですが、しかし貝吹さんのいう「客観性を有する個人的なモノの感じとり方」というもの。ええと貝吹さんが「ある」と感じたものは貝吹さんの主観(もちろん、その人から見たもの、感じたことのすべて、が主観の意味ですが..)によって構成されたものではないのかもしれないというきもするのです。客観的事実としてある、鉄格子をくぐり抜けられるかどうか、のよーに。

たとえば、ある一枚の魚の絵があるとしましょう。で、ある人は絵の中に描かれた魚を見て「美しい」とおもいました。べつのある人は、「グロテスクで気味わるい絵だな」と感じました。またべつのある人は「おいしそうな魚だ」と、またべつのある人は「やや活きの悪い魚だな」と感じた。
べつに絵をみて誰が何をどう思い感じるももちろん鑑賞者の自由ですが、とりあえずこの絵を描いた作者のひとは、「スーパーで買って来た、3割引のラベルがついてた魚を、抽象画っぽく描いてみた」と言います。魚屋さんにそれを見てもらったところ、抽象画っぽい絵の中の魚を指して、「ちょっと活きが悪いんじゃねえかなこの魚」と言いました。べつの板前さんも絵の魚を前に、魚屋さんとまったく同じ見解を述べました。そして僕は、活きがいいとかわるいとかどーでもいいし、さらに鮮度が落ちたあげく9割引の値がついた食べものもまだまだイケル!とおもってしまうわけですが、、さておき、貝吹さんの言う「ある」「ない」とはもしかしたら、魚屋さんが長年の経験と鋭い眼光でもって見抜いたもの(直観によって発見される主観を超えたもの)かもしれない、とおもいました。
くりかえしになりますが、もちろん現実世界にある情報と、人にの手によって表現されたものは、まったくべつのものです。それは、どんなに精緻に描かれたものにおいても。でも、たとえ子供が描いた抽象的かつデタラメな絵であろうと、「まっすぐに線が延びてる感じ」とか、「そこでひらける感じ」とか、「閉じる」とか、「ここで終わる」とか、見る者になんらかのリアリティが伝わったのならば、端的に、そこには主観を超えてあるもの(描き手に経験的に蓄積された知覚の記録のようなもの/主観に左右されない鉄格子のようなもの)が記録されている可能性があるのではないかと、そんなきがしています。


散文(批評随筆小説等) 貝吹明さんの『【批評祭参加作品】思うこと』を読んで、いまさら思ったこと。 Copyright  2010-03-08 03:31:54
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