錆びた三輪車は深いよどみの中へ走る
ホロウ・シカエルボク






冬の欠片を舐めながら
消え去ってゆく一羽の鴉
数秒前までやつの止まり木だった
徹底的に錆びついた三輪車は
生まれる場所を間違えた珊瑚のように見えた
いびつに変化した
小さなハンドルの上で
そいつだけの時間がだらしなくうつろっている
10年ほど前
そこである企業の経営していたカラオケスタジオが廃業した
8年ほど前
薄暗い建物が取り壊されたその頃から
その三輪車は瓦礫の中で主を待っていた
詳しい話は知らない
俺が聞いたのはそれにまつわる噂でしかない
働き詰めでおかしくなった店員が
たまたま遊びに来ていた店長の子供を刺し殺したとか…
2階のフロアーが
浸水したみたいに子供の血で濡れていたそうだ
店が廃業したころからそんな噂がまことしやかに流れていた
三輪車はそのとき殺された子供のものなのだと
だが
俺はその頃そんな事件があったというニュースを見たことがないし
そこで働いていたというやつにも会ったことがあるけど
そんな話は一度も聞いたことがなかった
と、首を傾げていた
「まあ、もっとも」とそいつは口をとがらせて
自分は最後まであの店にいた訳じゃないからそんな事はなかったとも言い切れない
そんな事を言った
「僕は店長に子供がいたことも知らなかった」
さて、それじゃあどうしてそんな話になったのか
はたしてここで子供は死んだのか?
三輪車を見ながら
噂について考えているうち
俺はそのことを少し検証してみたくなった
ずいぶんと少なくなった瓦礫を乗り越え
三輪車の方へ歩いた
今まで何人ものもの好きが
こんな風にして瓦礫を乗り越えたのだろうなと考えながら
近づいてみてもそれは
三輪車というより珊瑚という方がしっくりきた
ハンドルに手をおいて軽く揺すってみたが
それはほんのわずかも動くことはなかった
錆は不思議なほどにあらゆるパーツの上に盛り上がっていた
それはもしかしたら…
そう考えたとき突然周囲が入れ替わるような奇妙な感覚があり
その感覚は軽い眩暈を呼んだ
少しの間目を閉じてそれから開けると
三輪車の向かい側に
血まみれで
肌の下の組織をあちこちからはみ出させた子供が
ハンドルに手をかけて俺のことを見ていた
子供は
切り刻まれていることすら気づいてないみたいに見えた
俺たちは長いこと三輪車を挟んで向かいあった
やがて
子供は瓦礫の中から白い石を拾い
形の変わった胴体を苦労して屈めながら
足元の
基礎コンクリに「パパ」と書いた
そして
再び三輪車にを挟んで俺と向かい合った
(そうか、喋れないのだ)
と俺は思った
不思議なほどに気持ちは落ち着いていた
子供の口は骨まで砕かれたように裂けていたのだ
「ここにはいないよ」と俺は言った
そして
迷子に構うように子供の頭に手を置いた
手のひらには確かに感触があった
「君はもう死んでる」
子供は悲しそうな目になり
首を横に振った
「身体を見てごらん」
子供は身体を見ずにもう一度首を横に振った
まあ、無理もない
俺だっていつかこんな風にどこかでさまようかもしれない
「悪いけどおじさんは君のパパのことは知らないんだ」
判ってた、というような顔で子供は頷いた
「悪いけどもう行かなくちゃ」
子供はまた頷いた
そして苦労して小さなバイバイをした
俺は振り返らずにそこを後にした
瓦礫を乗り越えると妙にうれしそうな年寄りがふらふらしながら立っていた
「ね、ね、あんた、ここで何してたの?」

妙に幼い口調でそいつは言った
俺は三輪車の方を振り向いた、子供はこちらに背中を向けて立っていたが
何かを感じてこちらへ振り向いた
年寄りが長く高い悲鳴を上げた
「ごめんなさい、ごめんなさいー!」
年寄りはそう言いながら地面に突っ伏して痙攣し始めた
俺は子供の方をもう一度見たが
その姿はどこにも見当たらなかった
年寄りに視線を戻すと仰向けになって泡を吹いていた
今にも死にそうに見えたが
突然目を見開いて立ち上がると
「僕が殺した!」と叫びながらよろよろと走り去った
俺はしばらく背中を見送ったが
暗くなる前に家に帰ろうと踵を返した


そこには子供がいた
俺と目が合うとにやりと笑った






早く帰らなければならない








自由詩 錆びた三輪車は深いよどみの中へ走る Copyright ホロウ・シカエルボク 2010-03-03 18:31:26
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