ふりだしに戻るばかりの小さなさいころゲーム
ホロウ・シカエルボク
自爆的感覚を抱えたような内耳のノイズ
死角から襲いかかる獰猛な獣みたいに、小憎らしい感覚で脳髄の末端をつつく
俺の表情がちくちくとふるえるのが判るだろう
何か重要な組織にそいつは障害を差し込むのさ、嬉々として…
震度三のグラつきが眼球に認められたときには
もう手遅れなくらいに崩れ始めているんだ、ドクター、それ以上明かりを当てないでくれ
細胞に染み込んだ障害なんてどうせどうにも出来たりなんかしない
これを抱えて生きてゆこうと心に決めたばかりなんだ
停泊する船のマストのような揺らぎ
船底に空いた穴からエンジンオイルが海中に漏れだして俺の脳内は黒く塗られる
「もう航海になんか出られないかもしれない」と
言語脳に住む水夫たちが絶望の金切声、海は、海は
あんなにも圧倒的に俺たちを迎えてくれるのに
予定のない港に意味を持たない風が吹く、水夫たちは
身の凍るような冬に暑気当たりみたいな顔をしてばたばたと倒れてゆく
さよなら、さようなら、海…
薄暗い診察室の中でささやかなシステムがひとつ死んだ
新しい船があの港から出てゆくことはもうないだろう
鳩の糞を避けながら外に出て
色づき始めた花の香りを嗅ぎ
水夫たちの悲鳴を思い出して大笑いした、もう航海なんか、もう航海になんか…!
いっぱしの、船乗りみたいな口をききやがって、ええ、ばかやろうが
入江の中で遊んでたくらいのことしかしてこなかったくせに
そんなだからお前たちは終わってしまったんだよ
本当に海路図と睨めっこしてきた連中は
絶望する前に次の船のことを考えるんだ
海へ出る手段はひとつしかないわけじゃないんだから
大通りには強い風が吹いていた、脳髄の中で死んだ水夫たちの幻影が
一瞬にしてかき消えてしまうくらいの強烈な風が
暖かくなろうってときにどうしてこうもこいつらは騒ぎたてるのか
憎む前に殺してしまおうみたいなそんな凶暴性
目の玉に飛び込んだ砂が今日一日の在り方にケチをつける
結局のところ限られた一日に過ぎないのに
跳び込んだ砂にイラつきながらどのくらいを水に流すのだろう
交通公園のゴーカートに小さな子どもと乗る中年の男
そいつの目玉はまるで生まれたての猫のようなよどみをたたえて…
ひどい咳のようなエンジンはずるずると視界の端へ流れた
それで俺はまた水夫たちのことをひととき思い出す、たとえそれが
ひと息ついたあとにはもうなくなってしまうものだとしても
くま川は干潮の時間帯で
なにもかもやりつくして干上がってしまったみたいに見える
その堤防沿いを俺はずっと歩いた
意味のない晴天、意味のないリズム
漆喰の壁みたいにぽろぽろと崩れ落ちるインターミッション
いまひとつ釈然としないわずかな涙で目の中の砂はいつの間にか流れた
風の音に何も混ざらないのは
堤防近くのガソリンスタンドが休んでいるせいだ
アリサの詩を書いたときにはこの川の流れを思い浮かべていた
鴨と亀といくつかの魚が
躍起になって生物を主張する流れ
時折跳び上がる魚たちの腰つきはミック・ジャガーのダンスによく似ている
河原に降りる階段の途中に腰をおろして目を閉じたら
そこにはすでに春の温度があった
強い風は見事なまでに俺の体内を吹き抜けてゆき
そのせいで俺は可愛くもないのにからっぽな自分自身を
出来の悪い答案を突き付けられたみたいに目の当たりにしてしまう
せめて風に乗ることが出来たらこのからっぽにも価値は生まれるだろうか
遥か昔腕をなくしてでも空に行きたいと考えた種族たちは
土の上でそんなことを考えてしまったのかもしれないな、なんて
それじゃあ進化はすっかり後ろを向いたところから始まっちまうみたいだ
堤防の上にとまって
こちらをじっと見ている鳩に気づいた
そいつが餌を欲しがっているわけじゃないのは
目つきを見ればすぐに判った
俺たちはしばし睨みあった
まるで間接的な敵同士みたいな気分で
もう一羽の鳩が割り込もうとやってきたが
俺たちの顔を交互に見比べてすぐに飛び去っていった
「話したいことがあるのだけれど言っても仕方のないことかもしれない」とでも言うように
鳩はかすかに口を開けたままでいた
愛宕通りあたりを通過する車が高いホーンを響かせたとき
やつは舌打ちをして飛び去っていった
やつが舌打ちをしたのは俺の存在よりも確かな出来事だった
俺は肩をすくめて
首を何度か左右に振った
階段を上り堤防に戻ると
散歩中の老婆と目が合った
彼女は少しだけ微笑むと会釈をした
俺も同じようにして返した
渦巻くような風が橋の近くで騒いで
それまでの数十分はすべてなかったことになった