ペイター「ルネサンス」(1)
藤原 実

『ルネサンス』の「序論」でペイターは「美は、人間の経験に付与される他のすべての性
質とおなじく相対的で、その定義は、抽象性を増すのに比例して無意味、無用となる」と
言う。そして「『対象をあるがままに見る』とは何によらず真の批評すべての目標である」
とし、さらに「対象をあるがままに見るための第一歩は、自分が受取った印象をあるがま
まに知り、それを識別し、はっきりと感得することである」とかれの印象主義の宣言をし
ている。

「対象をあるがままに見る」とはマシュー・アーノルドのコトバだそうだが、ペイターに
とってそれはどういうことだったのか。また「印象」とはいかなるものか ------。



   ペイターよすべて
   ポプラの木のささやき
   だが『影よさようなら
   水にうつる木は切られてしまった」
   
      (西脇順三郎『コップの黄昏』)


『世界の詩論』(青土社)のT.E.ヒューム(「ベルグソンの芸術論」)の項の解説で新
倉俊一さんは「現実は習慣によって覆われているので、新しい比喩によってしか把握され
ない、というヒュームの説は、西脇順三郎の詩法の源泉となった」と書いている。


  「もし実在(リアリティ)が感性や意識と直接に接触し得るものとしたら、芸術
   は無用であろう、いな、むしろ、われわれすべてが芸術家となるであろう。芸
   術家たちの見るこれらのものは、すべて、現にあるものである。だのに、われ
   われにはそれが見えない------というのは、だが、なぜだろう」

  「何人も熟知している事実だが、常人は事物をそのあるがままには見ないで、た
   だ或る「固定した類型」を見るにすぎない。まず第一に、事実として、現にあ
   るのは単に色彩の連続した濃淡の移り行きほかならないことを、百も承知して
   いながら、われわれはそこに、明確な輪郭をそなえた別別の事物を見る」
               (ヒューム「ベルグソンの芸術論」長谷川鑛平訳)


しかし同じことはすでにペイターによって論じられていたのであり、西脇のペイター体験
がヒュームの説を受け入れる素地になったのではないだろうか。

西脇は『現代詩の意義』という評論の中で「今日エリオット氏やリチャーズ氏のいうよう
に、ペイターを攻撃するのはあまりに印象ということを簡単に考えすぎているのではない
か」といい、「印象批評のやりかたと同じようなやりかたで私は詩をつくりたいと思う」
と続けている。そしてそれはじっさいにはペイターのやりかたで…ということだった。


   「顔や手足の明瞭ないつも変わらぬ輪郭は、われわれ自身のもつ影像で、その影像
    のもとに顔とか手足とかをまとめているだけのこと、------言わば、織物の模様
    で、実際の糸そのものは、模様を超えて外に及んでいる。少くともこういう焔の
    ような性格を、われわれの生命はもっている。つまり生命とは、一瞬ごとに新た
    なる力の共同作用で、その力は、遅かれ早かれ、別れて別の方向に進んでしまう」
                            (『ルネサンス』「結論」)


ペイターは「言葉によって堅固な実質を与えられている事物の世界」に対して「不安定で、
一貫せず、ちらちらと揺れうごく印象の世界」こそあるがままの世界だという。そしてこ
の印象の世界は「絶えず逃げ去るもの」であり、リアルであるのは「すべて一瞬」のこと
で「捉えようとすれば消え去り、現在あると言うよりあることをやめたと言うほうがむし
ろあたっている」というようなものである。
そのようにたえず流動し分解してゆく世界の瞬間のリアリティの追憶として「印象」を考
えている。

そしてこの瞬間を見逃さないこと、「対象をあるがままに見る」ためには、繊細な眼が必
要なので「二人の人間、二つの事物、二つの状況がおなじように見えるのは、要するに目
が雑であることによる」と言う。


   「われわれはいかにして見ることができるのか。いかにすれば、一点から一点へ急
    に移り動きながら、しかも最大多数の生命力が最も純粋なエネルギーをあつめる
    焦点につねにこの身を置くことができるのか。

    この固い宝石さながらの焔を絶えず燃やしつづけること、この恍惚の状態を維持
    すること、それが人生の成功にほかならない。ある意味では、習慣を作ることが
    すなわち誤りであると言うことすらできよう」

   「われわれの経験がかくも華々しくしかも恐ろしいまでに短いことを意識し、全存
    在を糾合して見ること触れることに必死の努力を注ぐならば、見るもの触れるも
    のにまつわる理論を組立てている暇などありはすまい。なさねばならぬのは、つ
    ねに好奇心をもって新しい意見を検証し、新たな印象を求め、コントの、ヘーゲ
    ルの、あるいはわれわれ自身の安直な正統論に易々として服従しないことである」
                                   (「結論」)


そして「詩的情熱、美への願望、芸術のための芸術への愛」こそが過ぎゆく瞬間を宝石の
ような焔で燃やし続けることができる力なのである。



   「深い意味を持つ生気あふれる一瞬。ただ一つの仕種、表現、ほほえみ------短く、
    まったく具体的な瞬間にすぎないかもしれないが、長い歴史のあらゆる動機、あ
    らゆる興味と効果が凝集され、現在の強烈な自覚のなかに過去も未来も吸いこん
    でしまうような瞬間を提示すること」 
                            (「ジョルジョーネ派」)



   「それ自体は青白く無力な光線を一点に集めて燃えあがらせる……」
                       (「ヴィンケルマン」)


(注:『ルネサンス』からの引用は富士房百科文庫版(別宮貞徳訳)による)


散文(批評随筆小説等) ペイター「ルネサンス」(1) Copyright 藤原 実 2003-10-06 05:39:27
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