大森にて——とある放浪別記——
日雇いくん◆hiyatQ6h0c
中国人の女。
そいつに今、いいところを舐められている。
ねばっこい感触が先端から根元までを包み込むように、もしくは吸い上げるように、長い間続いている。
高原は遥か遠く、中腹だけが果てしなく続く。
気がつくと梅雨前だった。
苫小牧からフェリーに乗せられて会社の寮に入ったのが正月明けのことだった。
会社から出張の話があったとき、サラリーマンと同じだよ週六日働くだけだからなんて話をされ、今時リーマンは週五日じゃねえかよバカじゃねえの、みたいなことを思ったのを覚えている。
鳶の手元をやるというのが今回の目的だった。
高校を出てから大学受験に失敗し、ぶらぶらしたりパン工場や肉屋のバイトをしたりして土方の仕事に行きついた。
怒鳴られたり帰れと言われてばかりだったが、不思議にやめようとは思わなかった。運動神経というものに縁がある方ではなかったにもかかわらず体を動かすのは好きだった。終わればその日の分の金をもらってまた明日、というのも単純でよかった。
出張は、土方になってから三社か四社目かのところで言われた。
元住吉に連れて行かれ寮に入ると、もろにロケンローな男二人と相部屋になった。真新しいアパートだったことだけが取り柄だった。
夜になると毎日騒がしく、寝ているというのに酒を飲んではギターを弾いたり大声で歌われたりした。
仕事は難しくてさっぱり理解できなかった。わけもわからないまま言われたとおり足場材を運んだ。
十日ほどたった頃我慢の限界を超え、気まぐれに実家にいた頃作っていたサラ金のカードで金を引き出すと仕事を放り出して何日か遊んだ後、親方に辞める旨を告げて街に出た。
女が一瞬上目遣いで見つめる。
何も思わなかった。
ただ身を任せる。
女はまた作業に戻り、工夫をこらす。
努力の甲斐なく、高原にはたどりつけない。
少ない手持ちで、スポーツ新聞を見つめる。
バブルだった。
紙面を開けば、一面全部が求人広告だった。
それで、住み込みの仕事を探す。
紙面四つ分の求人広告から適当に選び電話すると、すぐ決まった。
電話の指示通り所沢駅に行くと、白いライトエースに子牛のように連れられ、部屋に組み込みの二段ベッドが八つある六畳ほどの部屋に押し込まれた。
十日契約というシステムだった。とにかく十日間働いたら金をもらい、それ以降続けるかどうかを選ぶ。それまでの間に金が尽きれば、内金といって、働いた分の中から一日五千円まで前借りが出来るようになっているので、それのお世話になる。
当時はだいたいどこの飯場でも似たり寄ったりの事をやっていた。
日当は一万円。その中から朝夕の食事代込みの寮費が一日二千円引かれ、残りの分の、内金を引いた分をまとめてもらう。だいたい五、六万だった。たいていパチンコに消えた。
そんな生活を三ヵ月続けた。
部屋は薄暗かった。
ぴったりだと、思った。
天井の四隅にぼやっとしたもやがかかっている。
エアコンが効いているはずなのに、汗ばむ感じがする。
命がけではるばるわけのわからない外国に来た女と、若いだけのただの冴えない男。
ビルの一室で二人が、ただ時間を浪費する。
まだ、続いている。
三ヵ月を過ぎると上が変わった。
以前の上は現場での送迎の際乱暴な運転で従業員を困らせた。
それ以外は切れ者で、結局出世したせいで飯場の担当を終えた。
新任の上は、前任とはあまりに能力に落差があった。
ほどなく飯場にトラブルが重なった。
逃げようと思い、内金を我慢して二十日以上待った。
辞めると持ち金が十五万ほどになった。
そのとき変わった上が、お前も俺から逃げやがって、という目をした。
かまわず挨拶をして飯場を後にした。
適当なアパートを探そうと思った。
どこへ行っても貸してはくれなかった。
職がなく、保証人もいなかったからだ。
親に頼もうにも不仲だった。
弱い心はすぐに折れ、金もいつしか底をついた。
キモチ、イイ?
訊かれる。
わかっていた。
自慰をし過ぎたせいだろう。
風俗には数回行った。
いつも結果は同じだった。
それでもよかった。
ただ女の肌が恋しくて行く。
それだけだった。
あいまいな返事をすると、また作業に戻った。
時間は、料金分の四分の三ほどになろうとしていた。
働くのに疲れホームレスになった。
その類の仲間とはつるまなかった。
寝る場所はその日ごとに変え、狙われないようにした。
自販機の釣り銭をあさったりして食った。
それでも食えないときだけ新聞を頼った。
数ヶ月経っても求人広告のスペースは四面を埋めつくしていた。
適当な日払いの仕事をした。
たまにテレビを見ると派手な光景ばかりだった。
戦後始まって以来の稼ぎ時。
こんな事になって、つくづく効率の悪い人生だと感じた。
気分がよければ何日も仕事をして危険の少ないところで寝た。
それと気づかず、ソレ系の人が行くサウナにも泊まった。
寝ている間に触られもした。
疲れ過ぎて相手にしていられなかった。
ただ、眠らせてほしい。
そう願うだけだった。
つくづく女がかわいそうになった。
仕事とはいえ、もう一時間近く口にしている。
断ればよかったが、とにかく疲れていた。
女はしかし、憎しみを色に表さなかった。
異国の地、異国の男に、金と引き換えにけなげに奉仕している。
金は、命の代わり。
そんな考えが、身に染みているに違いない。
信じ込む以外に、逃げ道はなかった。
山谷にも、たびたび泊まった。
手配師の世話にはならなかった。
手取りは少なくなるが、新聞で事足りた。
街は便利だったがたまにソレ系の人がいた。
よくナンパをされた。
その趣味はなかった。
そんなことがめんどうくさくなれば、また路上に戻った。
仕事をしないで済む日は、図書簡で日中を過ごした。
たまに金があればそれなりに遊んだが、だいたいはそうだった。
一ヵ月もそんな風に過ごすと涙もろくなってきた。
本に書いてあるちょっとしたエエ話や的なエピソードかなんかでよく泣いた。
しまいには、火の鳥を読むとその度に涙するようになった。
確実に蝕まれていると感じた。
ふいに女が恋しくなる。
金と気分の都合しだいだ。
心にぼんやりとスキが出来るとき。
決まって風俗かパチンコが相場だった。
九割方後者だったが、何回かに一回は前者だった。
行ってもむなしいとはわかっていた。
風俗で高みに到達したことが、ただの一度もないからだ。
ただ女の肌を確認する。
それだけのために、時には日給一日分を払った。
大森のビルに居続けるのも、あと少しだった。
もう時間だしいいよ、とやっと言う。
女は哀願するように謝るだけだった。
コメンナサイ、コメンナサイ。ホントニコメンナサイ……
謝らなければならないのはこっちの方だ。
金を払っているので言いにくかった。
やっと少しだけ頭を下げた。
女はひたすらカタコトで、申し訳なさそうに謝った。
ビルを出たところで、あてはなかった。
持ち金も残り少なくなった。
ワンカップでごまかすかどうするか。
霞がかった夕焼け空が遠かった。
――コメンナサイ、コメンナサイ。ホントニコメンナサイ……
一時間ほど含んでいた女の口から出る言葉と画が、しばらく空中に波を打った。