夢の競馬場2
花形新次
日曜日の過ごし方
土曜日は、家電量販店での仕事(読んでいるうちに眠くてしようがなくなる小説のための自動ページめくり機売り場の店員)があって、僕は競馬場には行けない。だから、競馬場に行くのは決まって日曜日。独り身の僕には、よその家庭のように、競馬に行くのを止めるものはいない。日曜の朝は、第1レースの発走時刻10:00にあわせ隣町の逗子のアパートを8時にでて、鎌倉駅まで電車に乗る。日曜の鎌倉駅は、八幡宮方面へと流れる観光客と虹色の絵具競馬場方面へ流れる客とに別れるのだが、老人やアベックが多い八幡宮方面とは違い、競馬場方面に向かう人々は疲れた中年男性ばかりだ。僕もそのひとり。観光客やアベックと僕らはお互いを見ようとはしない。互いに見るに値しないと思っているからだ。
改札の外にある売店のとなりにある『湘南ホースニュース』売り場で新聞を購入する。(この売り場以外で、『湘南ホースニュース』が買えるところはない。どの売店も、大新聞社の新聞からスポーツ新聞、他の競馬新聞まで売っているが、『湘南ホースニュース』だけは売っていない。それぐらい『湘南ホースニュース』は低俗なものと思われている。大新聞の無能な記者どもによる偏狭記事より、よっぽど素晴らしいことが書かれているのに。)予想のためには前日に買っておけばいいのだけれど、わざわざ鎌倉駅に途中下車するのは億劫だから、いつもこのタイミングになる。僕はそれをコートの左ポケットに押し込み、売店で買った缶入りトマトジュースを飲みながら、競馬場へと歩く。駅前ロータリーから北側へ真っ直ぐ伸びる道を500mほど行くと、木々に囲まれた公園のような場所がみえてくる。それが虹色の絵具競馬場だ。もう一月もすれば、競馬場へのこの道は桜が満開だ。桜吹雪の中を競馬場へと向かう時ほど幸せを感じる時はないんだぜ。この競馬場に入場料はいらない。入場ゲートで『湘南ホースニュース』をポケットから出し、係員(人件費削減のためか、東南アジアからの出稼ぎの人が多い。名札にはチャチャイとかウィラポンとか書いてある。)に見せるだけでいい。もちろん見せなくてもいい。要は挨拶代わりだ。
入場ゲートからみて左手には古い鉄筋の3階建てスタンドとその先にコースがある。馬券売り場はスタンドの中だ。右手にはパドックがあり、客はレースの前にはスタンドとパドックを往復することになる。コースは一周1000mで、鎌倉海岸と逗子海岸の砂を3:1でブレンドしたサラサラの軽い砂を敷きつめたダートコースのみ。
まだ第1レースまで1時間あるので、コーヒー嫌いの僕はスタンドの2階にある、コーヒーショップBuckpasserで季節を問わず冷たい抹茶フロートのラージサイズを飲みながら『湘南ホースニュース』の端から端まで目を通す。
この日のメインレースは、はじめて出会った日の次の日記念。「湘南ホースニュース」本紙予想の内容はというと、ちょうど40年前の今日、ドラッグと酒のやり過ぎで、マンハッタンの街中でマスターベーションをしながら死んだニューヨーク出身の詩人ジェームス・エヴァンスについての記述がほとんどを占めていた。彼の代表的な詩「蟷螂の悲しい性」を紹介し、メスがオスの頭を食いちぎり、オスは食いちぎられた刺激で精子嚢をメスに送り込むという蟷螂の性交をモチーフに男の悲哀を表現したジェームスの前衛的な詩の偉大さについて讃えていた。最後の最後に、従ってこのレースは男勝りの牝馬マリリンローズが勝つに違いないということがつけ足しのように書かれていた。
マリリンローズは、並み居る男馬相手に2年前の、年の瀬大賞典に勝った名牝で、その名の通り、グラマラスなボディと派手なブロンドでとても人気がある。しかし父親は無名種牡馬、母親の先祖はサラブレットかどうかもわからないという血統のため、嫁ぎ先が決まらず年増になった今でも現役を続けている。同じ厩舎の良血馬“貴公子”ネオプレジデントとの適わぬ恋のために、一時調子を崩していたが、ネオプレジデントだけさっさと引退して北海道でハーレム生活をはじめてしまってからは、吹っ切れたのか、以前の力を取り戻してきているというもっぱらの噂だ。
発馬表に目を移すと、本紙予想に足並みを揃えるかのように、出走馬中唯一の牝馬マリリンローズに本命が並んでいた。
僕が思うに、マリリンローズ自身は、男を食い物にして生きてきた女というよりも、むしろ出自のために男に捨てられた悲しい女って感じだ。だから本紙予想の蟷螂という比喩はこの馬には当てはまらないな。
それに僕はグラマラスな女性というのがあまり好きではない。重いし、手に余るような気がするのだ。しかも不幸な女ときてる。なおさら重いじゃないか。2000年代なんだぜ、そんな女は流行らないさ。もっと軽やかでなきゃ…。
僕は、マリリンローズははずそう、そして、そよ風(ジェントルブリーズ)という名の蟷螂のオスのように小さくカヨワイ今風の男の子を本命にしようと決めた。
そんな感じで、1時間をかけて『湘南ホースニュース』を読みながら、家からもってきた一本100円の赤ボールペンを手に、その日の全12レースの予想をした後、一度にすべての馬券を買ってしまう。買ってしまったら、後は、地下道からコースの内側にある公園にいって、スタンドにもパドックにも行かずに、芝生に寝転がって、一日を過ごすんだ。この場所も春先には桜が咲いて、とても綺麗だ。
レースとレースの間は、寝転びながら、何度も『湘南ホースニュース』を読む。2月でも日差しがとても暖かく、読んでいるうちに、眠たくなってくる。その眠気と闘いつつ5つのレースが終わった。僕は全部はずれ、『湘南ホースニュース』本紙予想は絶好調で、本命馬が5レース連続して1着だ。ああ今日も駄目かと、ますます眠気が強くなり、いつの間にかレースの大歓声も気にならずに本格的に寝てしまった。何故かマリリンモンローの映画のワンシーン(地下鉄からの風でスカートを巻きあげられる例のやつさ)で目が覚めたとき、ちょうどメインレースが終わったところだった。マリリンローズが男どもをなぎ倒し、圧勝していた。優男ジェントルブリーズは大差のしんがり負けだった。マリリンローズのファンがマリリンコールを叫ぶのが聞こえた。
このぶんだと、マリリンローズは完全復活だ。今年の暮れの大賞典もこの馬にやられるな…。
『湘南ホースニュース』本紙予想は本当によく当たる。『湘南ホースニュース』が集計した本紙予想における本命馬の連対率はなんと95%!、馬券を取りたいなら『湘南ホースニュース』本紙予想の本命馬絡みの馬券を買うのがお勧めだ。現に『湘南ホースニュース』本紙予想の通りにしか買わない元全共闘の進学塾講師を知っている。でも僕は買わない。僕は金儲けのために馬券を買っているわけじゃない。もちろん儲かるに越したことはないけれど。(『湘南ホースニュース』本紙は何故か本命馬しか予想しないので、高配当の馬単、三連単はなかなか当たらないし、もちろん単勝や複勝馬券は、大概人気になるから、当たっても大した配当にはならない。儲かるというのもちょっと違うな・・。)
僕は虹色の絵具競馬場が織りなすこの風景が好きだ。僕自身その風景に溶け込みたいと思っている。そのためには馬券を買う必要があるんだ。買ってしまえば、当たろうがはずれようが、レースをみようが寝てようが、僕は虹色の絵具競馬場の風景に溶け込み、一体になっている気がするんだ。(馬券を買わない者は傍観者でしかない。つまり額縁の外。)
そしてできることなら『湘南ホースニュース』とは違う僕自身の思い描く風景になりたいと考えている。
この日も『湘南ホースニュース』本紙予想の圧勝だった。すべてのレースが終わった頃には僕はすっからかんになっていた。日が翳って、急に寒くなってきた。侘しさが増幅するような寒さだ。僕は競馬場をでて、朝来た道を駅に向かって歩きだした。そんな僕は、まだ風景の一部だ。やがて駅に着き、観光客の中に紛れ、帰りの電車に乗り込むにつれ、風景は薄れ、やがて消える。
そして僕の日曜日は終わる。