夢の競馬場
花形新次
はじめにいっておきたいこと
俺は良識ある市民って奴が大嫌いでね。奴ら(大半は薄気味悪い厚化粧のオバハン連中だ。)は今日も、鎌倉駅前に立って、虹色の絵具競馬廃止!と目を血走らせて叫んでる。試しに、そこら辺に落ちている奴らのチラシを拾って読んでみろ。つまらない小市民どもの戯言が拝めるぜ。
奴らの主張ってのを要約すると、
…競馬を含めギャンブルなんてものは、無法者が好んでやるものだ。だから競馬場があると、日本中いたるところからそんな人間が大量にここ鎌倉に集まって来てしまい、その結果、鎌倉を生活の拠点として平和に暮らしている良識ある市民の自分達は、強盗、恐喝、窃盗、置引き、スリ、かっぱらい、強姦、暴行、詐欺等ありとあらゆる危険な犯罪行為に日々晒される事態に陥っている。こんな不安な環境は改善されてしかるべきだ。それは我々生活者にとって保障されるべき最低限の権利だ。虹色の絵具競馬を即刻廃止に追い込み、一日も早く我々に平穏な暮らしがもたらされるよう、全市民一致団結して闘い抜こうではないか!ってなところだ。
ハハハ、笑っちゃうね。こいつらは、こんなことをほざいてるけれど、あるときは女性差別やその他の人権問題について社会に向かって声高に訴える所謂人権派や進歩派だったりするんだぜ。それが、競馬場に集まる人間はそれだけで犯罪者かその予備軍だって端から決めつけてやがるんだからな。何が人権だ、何が生活者の権利だ!
市民代表のオバハン連中にいいたい。誰からも相手にされなくなった悲しい中年女の怨念を、善良な我々に向けないでくれ。競馬場に集まる無辜の人のささやかな楽しみを奪うな、と。
あんたが先ずやらなくてはならないのは、家族のために必死で働いているのに、その家族であるあんたやあんたの子供達からゴミのように扱われ、どこにも自分の居場所をみつけることのできない、あんたの悲しい亭主を救済することであり、あんたが自分の能力を省みずに多大な希望を託したがために、結局無為な青春を過ごし、その挙句、夜な夜なあんたを含めた家族全員の頭を金属バットで粉砕しようと狙っているあんたのダメ息子、ダメ娘を救済することだ、とね。
彼らが救済されない限り、あんたに本当の平和が訪れることなど決してありはしないのだから…。
ここに取りあげたのは、1970年代半ば、鎌倉在住の進歩派市民で結成された虹色の絵具競馬廃止を望む市民連合(競廃連)による一連の運動に対して、当時の世の虹色の絵具競馬ファンを代表する形で、孤独な闘いを挑んだ伝説のロックンローラー、ジョージ若松の言葉だ。
1976年に、よりによって競廃連の代表が市長に当選し、とうとう虹色の絵具競馬の廃止が決定されてしまうと、ジョージは、一年365日欠かすことなく、朝6時から夜9時まで鎌倉駅前に立ち、虹色の絵具競馬が如何に素晴らしいもので、自分達の人生にとってかけがえのないものか、人々に優しく訴え続けた。ジョージの言葉は、少しずつ真に良識ある人々の心に届き、その結果、4年の空白は生じてしまったものの、1980年に虹色の絵具競馬は見事復活することとなった。(本当のことをいうと、鎌倉市の財源の約3割を虹色の絵具競馬の収益が占めていたことを考えれば、虹色の絵具競馬の廃止が何を意味するのか、小学生にだってわかりそうなものだった。虹色の絵具競馬復活は鎌倉市政の観点からも当然のなりゆきだったのだ。)復活の日に、その立役者としてイベントに招待されたジョージは、ウイナーズサークルに設置されたステージに立ち、彼の代表曲「擦り続けるってこと」を熱唱し、大歓声を浴びた。当時13才の僕は虹色の絵具競馬の大ファンだった父親に連れられ、その場所に居あわすことができた。虹色の絵具競馬史上に残る感動的なシーンだった。
最近の彼は、鎌倉駅前の商店街にあるバーで、ギターを片手に古いブルースを唄い、週末になると、虹色の絵具競馬にという生活をしていたようだ。
にこにこ微笑みながら、レースを観ている姿を、僕も何度かみかけたことがある。本当に幸せそうな笑顔だった。
そのジョージ若松が死んだ。享年58才。虹色の絵具競馬場へ行く道の途中で、脳溢血を起こして倒れ、そのまま逝ってしまった。早すぎる死だった。
そんなジョージのように、虹色の絵具競馬を愛し、虹色の絵具競馬のために人生の一部を捧げた人々がいる。
そして虹色の絵具競馬は、僕の人生の一部になった。