厚い一枚板のカウンターに2杯目のカクテルが運ばれてくる。
君はウエイターに軽く会釈すると、すぐグラスに口をつけた。
鮮やかなライムグリーンのカクテル。グラスのふちについた唇
のグロスの跡を細い指先が拭う。長い爪の先にある小さなライ
ンストーンが、バーのほの暗い光に反射している。ネイルサロ
ンなんか行かないと言っていた君を変えたのは俺じゃなくてあ
の男か…。
ブルガリの香水が甘い体臭と溶け合って鼻孔をくすぐる。それ
だけでもう答えは明白だ。また君は恋に堕落している。
「彼が何を考えているのかわからない」すでに紅潮した頬で君
は嘆く。カウンターの向こうにある掛け時計はまだ午後8時を
回ったばかりだ。この時間に俺を呼び出したのは、差し詰め男
にドタキャンされたのだろう。ノコノコ出てくる俺も馬鹿だな
と自嘲しながら、やはり綺麗な女と飲むのは悪くない。ただ、
そこに付加価値を求めようとするならば、聞き役に徹する演技
も必要だ。
君が好むカクテルはジンベースで、かなりアルコール度は強い。
たちまち充血して虚ろな目になった君は、重厚なカウンターの
上に「彼への想い」を溢し出した。ローズピンクの濡れた唇か
らは次第に怨念となった言葉が連なり、崩れ落ちる。熱く湿っ
た吐息は、怒りで跡形もなく蒸発していく。鎖骨の下の過呼吸
な水蜜桃は肌けた膨らみを大きく上下させ、アーモンド形の二
重の眦はキリキリとつり上がった。
形相を変えた君は、口から糸を吐く女郎蜘蛛だ。粘着質の糸を
次々とまき散らし、男を絡め取る。
男の周りに飛び交う蝶は尚のこと容赦なく捕らえ、その尖った
爪の先で止めを刺す。とりわけ美しい羽根の蝶にはますます残
忍となり、血に染まって羽根がもがれるまで繰り返し罠をしか
けてなぶる。引き裂かれた蝶の生き血を啜ったその黒い腹には
獲物を求める底なしの徒花が、艶を増した花弁をパックリ開い
て待っているはずだ。
引きずり込まれたら、二度と浮かび上がれない女の深淵。
泥沼よりも重い執着の横糸に足を取られ、必死に逃げだしたあ
の男の顔が目に浮かぶ。
さっきまでの淡い期待は冷や汗に変わっていた。
そろそろ引き上げた方がいいだろう…。伝票を掴もうとしたが
、身体が痺れて動かない。気づいたら、もう右手に白い蜘蛛の
糸がネットリとまつわりついている。君はトロンとした目を鈍
く光らせ、含み笑いをしながら「ねえ、3杯目が欲しいの」と
にじりよってきた。抗えばますます締め付ける蜘蛛の糸。この
ままじゃ女郎蜘蛛の餌食になる。
直感的にある固有名詞を言わなければ、逃げられないと思った。
あの小説の中に出てくる一節だ。そう、さっきまで君の喉をす
べり落ちていた液体の名前を。だけどなぜかその部分だけ記憶
から脱落している。
俺は背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、頭の中でレイモ
ンド・チャンドラーの『長いお別れ』のセリフを必死に思い出
そうとしていた。
※ギムレット ドライジンにライムを搾りシェークしたカクテル。
レイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』の一節に
「ギムレットには早すぎる」という有名なセリフがある。