秘密荘厳大学文学部
済谷川蛍

 一

 大学の食堂でいつものように一人でヘルシーな食事を終えて食器を片づけたあと、生協へ冷やかしに行くと一人の学生から声をかけられた。
 「秋山さん、あの、ちょっといいですか」
 声をかけてきたのは1回生の学生である。彼は器量がいいことで知られていた。今まで会話をしたこともなく、自分の名前を呼ばれて驚いた。私は若干戸惑いを覚えつつも落ち着き払ってこたえた。
 「何」
 「秋山さんはヘッセに詳しいですよね」
 「いや、あまり詳しくないよ」
 彼は少し焦ったそぶりを見せた。実際、私はヘッセの研究者でもなく、熱心な読者でもない。ただ何となくノーベル賞作家のファンだとカッコがいいので尊敬しているだけだ。
 「いやぁ、でも僕『車輪の下』っての読んでみたんですよ。レポートのために。でも全然理解出来なくて困ってるんです」
 彼はショルダーバッグから『車輪の下』の文庫を取り出してみせた。
 「自習室に行こうか」
 「あ、はい。すみません」
 私はマウントレーニアのカフェラッテとイチゴ大福を買った。お釣りを募金箱に入れて自習室へ向かった。彼は私の後ろをついてくる。
 自習室では何人かの学生がイスを並べ、作務衣姿で仮眠をとっていた。大学で数少ない女の子の学生が携帯で何か喋っている。私はなるべく人の少ない場所へ座った。とりあえず私は彼の名前を聞くことにした。
 「君、名前はなんだっけ」
 「あっすみません。森野といいます」
 「君、かっこいいね」
 「えっ」
 初対面の相手と話すときに芸能人の誰それに似ているという話題をふるのはセオリーといえるだろう。
 「芸能人の誰かに似ている気がする」
 「えっ誰ですか」
 「ジャニーズの誰かに」
 「えっそうですか。自分はそうは思いませんけど」
 彼は顔を紅潮させて視線をそらした。
 話は変わるが、前園教授が講義中、昨今の若者の活字離れについて嘆いたことがあった。
 「皆さんの中に芥川龍之介の『蜜柑』という小説を読んだ方いますか。いたら手をあげてください」
 教室には様々な年代の学生が50人ほどいたが、私も含めて誰も読んだことがなかった。前列の勉強熱心なおばさんが「『檸檬』じゃないですか?」と言っていたが、それは梶井基次郎だろと思った。その日アパートに帰って青空文庫で読んでみたが、それほどでもないんじゃないかと思った。前園教授はヘッセも大好きでそこは自分と共通するのだが、やはり読んだ時期やそのときの状況などによって評価は異なるものらしい。
 私は外を眺めている森野くんに言った。
 「文学は面白いか面白くないかだよ」
 「えっそうなんですか」
 「うん」
 彼はヘッセの『車輪の下』の表紙を眺めた。
 「それに文学作品を読むにも段階っていうか、順番があると思う」
 「やっぱりいきなりヘッセはレベル高すぎですか!?」
 私は思わず吹き出した。何だか彼の思い描いている文学のイメージが無邪気で可愛らしかった。カフェラッテのストローを吸った。イチゴ大福の包みを開けて食べようとすると粉がこぼれて机に散った。
 「ボロボロこぼれるね」
 彼はちょっと困ったような、はにかんだような笑顔を見せた。まるで高校生か、中学生みたいに見える。
 「実はね、僕が読んだ『車輪の下』はその翻訳じゃないんだよ」
 「えっ、そうなんですか。なんか通ですね」
 「僕のは『車輪の下に』って題名のやつで…。多分アパートにあるから持ってくるよ」
 
 二

 次の日、食堂で彼を見つけた。私は食事する姿を人に見られたくないから一人にしてくれと表情や素振りで伝えた。トレーを取って、豆腐、野菜サラダ、みそ汁、小ごはんを載せた。260円を払い、豆腐に醤油を、サラダに青じそドレッシングをかけ、いそいそとお茶を入れ、なるべく人気の少ない寂しい場所を選んだ。まもなく彼がやってきて私の目の前の席に座った。
 「来るな!」と思ったが豆腐を箸で割る。
 「秋山さんいつも一人で食べてますね」
 「うん」
 それっきり会話が途絶えた。大体、こうなる。私は会話の仕方をほとんど知らずに生きてきた。緊張して箸から何度も豆腐がこぼれおちる。彼の顔をのぞくと下唇をかんでいる。私に気を使っているようだ。

 仮眠室こと自習室で――。

 ヨゼフ・ギーベンラート氏は、仲買人で代理人をかねていたが、別にこれといって長所や特性を持ち合わせているのではなく、一般市民と比べてちっとも変るところはなかった。一般市民と同じく、がっしりした、健康な体格の持主で商人として相当な才能を持ち、また金銭は正直に心から大切に思っていたし、さらに、狭い庭のある、ささやかな住宅と、墓地には先祖代代の奥津城(おくつき)を持っており、教会に対しては迷信的ではないが陳腐な信心を抱き、神とお上に対しては相当な尊敬を示し、市民としては安寧秩序の鉄則に対しては、盲目的に服従していたのである。

 という文章で『車輪の下に』は始まる。主人公ハンス・ギーベンラートの父、ヨゼフの人間像の批評である。「教会に対しては迷信的ではないが陳腐な信心を抱き」という部分が実に文学的なユーモアに満ちていてヘッセらしい面白いセンテンスなのだが、それを説明しても森野くんはわからないようだった。
 「やっぱり文学は難しいっすね」
 彼は自嘲するように言ったが、その苦笑いは彼の精神の健康さを表していた。
 『車輪の下』は、ある平凡な町に奇跡のように誕生した優秀なる少年ハンス・ギーベンラートが周囲の期待通りに神学校に進むが、繊細な性格によって神経症にかかり、最後には亡くなってしまうという救いのない物語である。主人公ハンス・ギーベンラートの初めの描写はこのようなものだ。

 ハンス・ギーベンラートは疑いもなく優秀なる子供だった。この子が他の子供たちとまじって走り廻っていたとき、どんなに上品で人目を惹いていたかを見れば、それで十分だろう。シュワルツワルトの小さい町はかつてこんな容姿を育て上げはしなかった。この土地からは、広く見通しがきき、また広く活動ができるような人物は一人として出ていないのだ。その子の真剣な眼つきや、聡明な額(ひたい)や、上品な物腰が、どこに由来するものか、誰にもわからない。思うに、母からのものであろうか。母は亡くなって数年にもなるが、その存命中、絶えず病身で苦しんでいたという以外には、一つとして取り立てて言うべきところは見当らなかった。父は問題ではなかった。だとすれば、実際、この古い小さい町へいつか天上から神秘な火花が飛び下ってきたのだ。

 「森野くん」
 「はい」
 「ここの「だとすれば、実際、この古い小さい町へいつか天上から神秘な火花が飛び下ってきたのだ。」という言い回しにシビれないかね」
 「え…」
 彼は私の瞳が微かに失望の色に変化するのを見たのだろう。
 「何となくいいと思います!」と言った。
 私はなぜか笑っていた。
 彼は「やっぱり無理なんすかねぇ」と申し訳なさそうに呟いた。
 面白いか面白くないか、ただそれだけである。私よりも森野くんのほうがずっと優秀だ。
 「アレックス・ロビラの『グッド・ラック』を読みなさい。きっと面白いから」
 「はい…そうします…」
 おそらく私は彼以上に残念な気持ちだった。

 4講時の授業を終えて雪を軽く蹴りながら裏門へ歩いていると森野くんに出逢ってしまった。私はもちろん動揺するのだが、彼のほうは無邪気に声をかけてくる。
 「アレックスなんとかの『グッド・ラック』、大学の図書館にありました。ちょっと読んでみたけど面白そうです」
 そうか、と私は微笑んだ。私と彼は一緒に歩いた。思えば、私はこれまで大学で笑ったことなどほとんどなかった。いつも下ばかり向いて何か考え込んでいるふりをしていた。彼は私の心の永久凍土を溶かしてくれそうな春の兆しのようだった。
 裏門の階段を下りると高野山高校の女子高生たちが4人ほど座っていた。横を通り過ぎるとき彼女たちはこちらを振り向いたが私は斜め下に視線を固定していた。少し歩いて森野が言う。
 「結構可愛かったですね。秋山さんは誰が好みですか?」
 「見てないよ」
 「硬派ですね。秋山さん、彼女いるんですか?」
 「君が彼女みたいなもんだよ」
 えっと彼が驚いた顔をした。私はそれを見てまた少し笑った。


散文(批評随筆小説等) 秘密荘厳大学文学部 Copyright 済谷川蛍 2010-01-29 05:33:52
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