黒頭巾ちゃんと仮面舞踏会
チアーヌ
黒頭巾ちゃんは、夜のお出かけの準備をします。
真っ黒なロング・ヘアをアップに結い上げ、深紅のロングドレスを身につけ、広く開いたデコルテにはダイヤのネックレスを。
そして、黒頭巾ちゃんは、鏡の中の自分の顔をしばらく見つめたあと、最後の仕上げに、ペタリと、自分の顔の上に、全く違う顔を乗せました。
そして、濡らしたスポンジで押し当てながら、ゆっくりゆっくりとのばして行きます。
そうして、鏡を見てにっこり。元の顔とは違う、全く違う女の出来上がりです。
もちろん、普段身につけている緑の頭巾はタンスに仕舞ってあります。
今夜は、仮面舞踏会。
みんな、違う顔をつけてその場に現れるのがルールなのです。
身支度を終えた黒頭巾ちゃんが、お庭で咲かせたオールドローズで作った香水を、太腿の内側と手首と耳朶にそうっと擦り込んでいると、ドアを開けておおかみが部屋の中に入ってきました。
「おい、もうそろそろ出かける時間だぞ」
「今、行くわ。あら、あなたも素敵ね。いつもの顔の、何倍もいい男じゃない」
「お前はのセリフはいちいち余計だよ。たまには素直に、俺を褒めたらどうだ?」
「これでも褒めてるつもりよ」
「どうだっていいから早くしろ。本当に、女は支度が遅いから困る」
黒頭巾ちゃんは溜め息をつきながら立ち上がりました。
楽しいはずの仮面舞踏会に、おおかみなんかと出かけなくちゃならないなんて興ざめです。が、しかし、他に一緒に行く相手もいないので、しょうがありません。
おおかみは、パーティに一緒に行く相手としては申し分が無いのですが、他はすべて最悪なのです。
家の前には黒い大きな車が止まっています。
運転手がドアを開けてくれるのを待って、黒頭巾ちゃんは後部座席に乗り込んで体を沈めました。
おおかみが乗り込んで来て、黒頭巾ちゃんのドレスを捲り、手を滑り込ませます。
「今夜は、お前もずいぶんといい女に見えるよ、黒頭巾」
「ふん。いつもと違う顔をつけているのだものね」
運転手が妙に気を利かせて、後部座席と運転席の間に半透明のスクリーンを下ろしました。
すると、急に静かな音楽が流れ出しました。
ラヴェルの「マ・メール・ロワ」です。
「ふん。気が利くじゃないか。俺たちにぴったりだ。まるでお伽噺みたいで」
おおかみが笑いながら言いました。
「気を利かせてもらわなくなっていいのにね。どうせわたしたちなんだから」
「そう言うなよ、黒頭巾。こんな風にさせてもらってるのは、誰のおかげだと思ってるんだ?」
「なんと言われようと、わたしはあんたなんか嫌いよ」
「まあ嫌いでもいいさ。サービスしてくれれば」
おおかみがズボンを下ろすと、黒頭巾ちゃんはドレスを持ち上げて、おおかみの膝の上に跨がるように腰を下ろしました。
何しろ広い車なのです。
「さすがだな、黒頭巾。下着も付けずにお出ましか」
おおかみがちょっと黒頭巾ちゃんを睨むように見ましたが、黒頭巾ちゃんが笑いながら腰を上下に動かすと、もうどうでも良いように笑いました。
「ガーターベルトはつけてるわよ」
車は静かに走り続けています。
もう間もなく、黒頭巾ちゃんとおおかみは、仮面舞踏会の会場へと到着します。
「楽しみだわ」
黒頭巾ちゃんはおおかみの頭を抱きしめながら溜め息をつくようにつぶやきました。
「今夜は、神様は来ているかしら」
黒頭巾ちゃんがそうつぶやくと、おおかみが黒頭巾ちゃんの体を抱き上げ、引き離すようにして、黒頭巾ちゃんを隣へ座らせました。
そうして、ちょっと寂しそうにつぶやきました。
「俺はいつか、お前を殺しちゃうかもしれないな」
黒頭巾ちゃんは何も言わず、おおかみの手を握りました。
車のドアが開きました。運転手がマスケラをつけて、微笑んでいました。
「行ってらっしゃいませ」
大理石の階段を登るとそこには大きな扉があります。
黒頭巾ちゃんはおおかみにエスコートされて、階段を上ります。
マスケラをつけた門番や道化師たちが、黒頭巾ちゃんとおおかみの行く手を広げ、会場の扉を開きます。
すると、溢れるような光と音楽が黒頭巾ちゃんを襲いました。
ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」が流れています。
黒頭巾ちゃんの背後で、扉が閉め切られました。
二人の周囲に、道化師たちが集まって来て、そして二人に、口々に卑猥な言葉を投げかけながら、シャンパンを差し出して来ます。
黒頭巾ちゃんはそのうちのひとつを手に取り、一気に飲み干すと、するりと手からシャンパングラスを落っことしました。これは、わざとです。
すると、まるで床に這いつくばるようにして、道化師がシャンパングラスを受け止め、そのついでに黒頭巾ちゃんのドレスの中に顔を突っ込むと、いやらしい笑い声を立てました。
「奥さん、下着つけてないね。こりゃあいい。こりゃあいい。こりゃあ......」
シャンパンを一気にあけて、とりあえず気分が良くなった黒頭巾ちゃんは、深紅のドレスを軽く持ち上げ、道化師に跨がるようにしてクスクス笑いました。
そうして、道化師にだけ聞こえるように、小さな声で言いました。
「今夜は、あなたにいろいろと協力してもらうことがあるかもしれないわ。いいかしら?」
「奥さんの言うことなら、どんなことでも。へへっ」
黒頭巾ちゃんは、にっこり笑いながら、道化師の手のひらに金貨を押し込みました。
「よろしく頼むわ。そっとわたしについていて」
そんな黒頭巾ちゃんの腕を掴んで、おおかみはどんどんホールの中央へと進んで行きます。
そしてホールの真ん中に来ると、おおかみは黒頭巾ちゃんの腕を離し、背中をトン、と押しました。
「まぁ、いいさ。楽しんで来いよ。久しぶりの舞踏会だろ」
黒頭巾ちゃんが何かを言い返そうと振り向いたとき、おおかみはもういませんでした。
ワルツを踊る人たちの群れの中に紛れ込んでしまったのです。
あのおおかみことだから、すぐにパートナーを見つけて楽しむつもりなのでしょう。
(勝手にやればいいわ)
そう思いながら、黒頭巾ちゃんが踵を返して、周囲の道化師たちが差し出すシャンパンを受け取りながら歩き始めると、向こうからブルーのドレスをを来た女がにこやかに合図をしながら近づいてきました。
「誰よあなた?」
何しろ違う顔を貼付けて来るのですから、誰が誰なのかさっぱりわからないのです。
「うふふ、わたしよ、わたし。ねえ、わからないの?」
「なんだ、青頭巾じゃない。よくわたしがわかったわね」
黒頭巾ちゃんはつまらなそうに言いました。
「ふん。そのダイヤのネックレスでわかったのよ。それ、おおかみが大枚はたいて買ってくれたやつでしょ、アンティークで、世界にこれひとつってやつ」
「そんなこと、放っておいてくれない。おおかみのことなんか今ここで考えたくないわ。それにしても、こんなところで知り合いに会っても始まらないわね」
「ま、それはそうなんだけど。まぁでもあなたも、どうせおおかみと来たんでしょう」
「そうよ。しょうがないじゃない。パーティへは、エスコートの男性なしで来る訳にいかないんだし。ところであなたは誰と来たのよ?」
「決まってるじゃない。柴犬よ」
「は?あなたまだ、あの柴犬とごちゃごちゃやってたの?」
「まぁね。一応ね。親切なヤツなのよ。でも、さすがにもう飽きたわ」
「で、どこにいるのよ、柴犬は?」
「えへへ、撒いて来ちゃったわ。あの男には、ここがどういうところなのかってこともわかってないと思うわ。だからちょっと気の毒なんだけど」
「ひどい女ね」
黒頭巾ちゃんはあきれたように言いました。
「あなたにそんなこと言われたくはないわね。さてと、手を貸してよ」
青頭巾ちゃんはニヤニヤと笑いながらそう言います。
「何をしろっていうの?」
「着替えるのよ!完全に柴犬を撒くためにね」
「あっなあるほど」
黒頭巾ちゃんは感心して、頷きました。
「そんなことなら、任せてよ」
黒頭巾ちゃんはクスクス笑いながら、つぎの瞬間には、獲物を探すために周囲を見回しました。
「あっあいつ!あのバカうさぎじゃない?」
色の白い、耳の長い、出るところが出て引っ込むところが引っ込んでいる、シルバーのドレスを着込んだうさぎが、かなり酔っぱらって、人の良さそうなカモシカ男に絡んでいるのが目に入りました。
違う顔を付けてはいるのですが、詰めの甘いうさぎは、うさぎであることを隠すことができず、見え見えなのです。
「おあつらえ向きのバカ発見ね。ようし」
黒頭巾ちゃんはにこやかに、うさぎへと近づいて行きました。
「こんばんは。久しぶりね、お元気だったかしら?」
「ええ、こんばんは。ねえ、でもどなただっらかしら?何しろ今夜は仮面舞踏会。わたしにはあなたがわからないわ」
「うふふ。そうでしょうね。でも、わたしにはすぐにあなたが可愛らしいうさぎさんだとすぐにわかったわよ。ねえ、ちょっと良い話があるの、ぜひお聞かせしたいわ」
「何よ、良い話って」
うさぎが、ちょっとうさんくさそうな目で黒頭巾ちゃんを見つめます。
「ええ、良い話よ。あなたが昔つき合っていた、柴犬さんのことなんだけど.....」
「えっ?なぜあなたがそんなことを知っているよ?柴犬が、どうしたって言うのよ!あいつはね、酔っぱらったわたしを置いて、他の女とどっかに行っちゃった薄情なヤツなのよ!」
うさぎが、酔いもあったのかちょっと興奮した様子になったところで、
「そうなんですってねえ。そこで、ちょっと良い話がありますのよ。なので、ちょっとこちらへ.....」
と、黒頭巾ちゃんはうさぎを適当に誘導して会場の外へ出て、さっきドレスの中を見せたついでに手なずけておいた道化師を呼び、うさぎに当て身を食らわせてもらい、眠らせました。
そうして、別室に連れ込んだうさぎのドレスを脱がせると、青頭巾ちゃんに、うさぎが着ていたドレスを着せ、うさぎに青いドレスを着せました。
「ちゃんとしたベッドに寝かせてあげるんだし、青いドレスも着せてあげたんだから、悪く思わないで欲しいわね」
「そうですなあ、奥さん。このうさぎは、今夜の仮面舞踏会が半ばを過ぎる頃には、目が覚めると思いますですよ」
「それならいいわ」
そのうちに、着替えを済ませた青頭巾ちゃんが、黒頭巾ちゃんと道化師の前に現れました。
「もう、何よこのペラペラのドレス。安物じゃないの。いやだわ、こんなの」
「贅沢言わないでよ、しょうがないでしょう」
「そっちの奥さん、マスケラをどうぞ」
道化師が、青頭巾ちゃんにマスケラを差し出し、青頭巾ちゃんは、ぶつぶつ言いながらもそのマスケラをつけました。
「うふふ。これでやっと準備ができたわね。さあ、行きましょう!」
黒頭巾ちゃんと青頭巾ちゃんは、微笑み合いながら、ダンスホールへと繋がるドアを道化師に開けてもらい、するりと中へ入り込みました。
「じゃあね、黒頭巾ちゃん」
「うふふ、それではまたね」
青頭巾ちゃんが扇で顔を隠しながら、ダンスホールの中へ消えて行きます。
黒頭巾ちゃんも、扇で顔を隠しながら、眼前で踊り続けている人々を眺めていました。
すると、
「奥様、わたしとおどって頂けませんか?」
そう言いながら、背の高いスラブ系の紳士が黒頭巾ちゃんの前に現れました。
なぜスラブ系かと思ったかというと、その紳士がボルゾイだったからです。
ロシア貴族の犬と伝えられたボルゾイは、とても大きく優雅で、まるで子馬のようです。
「ええ、いいわ」
黒頭巾ちゃんはうなずき、ボルゾイと共に踊り出しました。
ボルゾイはエスコートがとても上手で、黒頭巾ちゃんは自分の意思で体を動かさなくても、ひょいひょいと踊らされてしまいます。
「ダンス、お上手ですのね」
黒頭巾ちゃんがボルゾイを見上げてそう言うと、
「ええ。でも革命のあとは、あまり踊る機会もなかったものでね。今日は思う存分ダンスができて、うれしいですよ」
と、ボルゾイは品の良い笑顔で答えました。
「革命って、ずいぶん昔のお話ではなくて?」
黒頭巾ちゃんが不思議に思って訊ねると、ボルゾイは寂しそうに笑い、
「僕にとってはまるで昨日のことのようなのですが」
と、答えました。
そうしてそのうちに、黒頭巾ちゃんは、腰に回されたボルゾイの腕で、ダンスホールの片隅へと運ばれてしまいました。
「黒頭巾さん。あなたはとても美しい人だ」
ボルゾイが、そう言いながら、黒頭巾ちゃんを抱きしめ、キスをしてきました。
普段の黒頭巾ちゃんなら、ボルゾイの甘い言葉なんかに騙されなかったかもしれません。
けれど、今夜は仮面舞踏会なのです。
甘い言葉の言い放題、聞かされ放題、やりたい放題、今夜の舞台は楽しもうとするものだけに開かれるのです。
黒頭巾ちゃんはボルゾイのキスを受け、ボルゾイの語る甘い言葉に酔いしれながら、スカートの中に潜り込んでくるボルゾイの頭を蹴り出そうとじゃれ合い始めました。
こうなってくれば、ボルゾイだってやはり犬です。
音楽はいつのまにか、チャイコフスキーの5番のワルツに変わっています。
「いやんっ、くすぐったいわよ、ボルゾイ、やめてっ」
「うわっ下着穿いてないんですね、黒頭巾さん。噂通りの人だったんですね。今夜は僕が一番乗りだなんて光栄だなあ」
「あっやめてっほんとにくすぐったいのよ!あっ、....ああん.....はぁぁ」
黒頭巾ちゃんは、いつのまにかボルゾイに乗られてしまっていました。
「奥さん、お楽しみですね」
道化師が側に控えながら、ニヤニヤと黒頭巾ちゃんを見つめています。
そのあと、黒頭巾ちゃんは、ボルゾイと離れ、2、3匹のケダモノたちと遊びました。
(まぁでも、今夜は最初のボルゾイが、一番素敵だったかも。何しろささやきが良かったわ。あとはいまいちだったわね。甘い言葉が下手なケダモノなんか、ケダモノの風上にもおけないわ)
黒頭巾ちゃんはそんなことを思いながら、ふらふらとしていました。
「奥様、シャンパンをどうぞ」
シャンパン好きの黒頭巾ちゃんに道化師が次々に差し出すシャンパングラスを、黒頭巾ちゃんは飲んでは捨て、飲んでは捨てしながら、ダンスを続けました。
もちろん落としたシャンパングラスは、その度ごとに道化師が絶妙のタイミングでキャッチするのです。
それが、この仮面舞踏会での道化師のひとつの芸でもあるのでした。
音楽は「白鳥の湖」のワルツに変わっていました。
「ところで、今日のオケはかなり素敵ね」
黒頭巾ちゃんが、足元に這いつくばっている道化師にそう話しかけると、なんと、
「奥さん、なかなかお耳が高いですね。そうなんです。今日のオーケストラは、お忍びでとても有名な指揮者が来ているんです」
と、答えるではありませんか。
「へえ、有名な指揮者?それは一体誰なの?」
「奥さん、それは聞かぬが花というやつですよ。なにせ今夜は、仮面舞踏会ですから」
「そうか、それもそうね。ふふっ、それじゃあその指揮者の顔でも拝みに行こうかしら?」
「奥様、オーケストラピットはあちらです」
そのとき、ダンスの休憩時間が訪れました。
オーケストラが、ワルツをやめて静かな曲を演奏し始め、ダンスホールの中の人々は、食べ物や飲み物を片手に、バルコニーのほうや、大ホールを出たところに多数用意されている小さな舞踏場へと、移動して行きました。
みんな、今日の演奏が素晴らしいということを、良く知らないのです。
(何かしら。この曲は、確か......)
ふと、黒頭巾ちゃんの胸が騒ぎました。
(どこかで聞いたことがあるわ。どこかで.....)
ホールの照明が落とされ、黒頭巾ちゃんの周囲が薄明るい光に包まれました。
「休憩時間まで楽しむつもりかね。全く、好き者の奥さんにも困ったもんだ」
道化師がぶつぶつ言いながら黒頭巾ちゃんに付き従います。
(ああ、そうだわ。これは、チャイコフスキーのロメオとジュリエットじゃないの)
黒頭巾ちゃんの頭上で、シャンデリアが消えました。
そうして、黒頭巾ちゃんの眼前に、オーケストラが現れました。
こちらに背を向けて、指揮者がタクトを振っています。
黒頭巾ちゃんは、そっと横に回り、横顔を垣間見ました。
ベネチアンタイプのマスケラをつけた、その横顔には、見覚えはありませんでしたが、黒頭巾ちゃんは気がついたのでした。
演奏は続いています。
誰もいない大ホールで。
(神様.....)
黒頭巾ちゃんには、その指揮者が黒い神様だと、はっきりとわかりました。
そう気がついた途端、黒頭巾ちゃんの周囲は、暗闇に包まれました。
そうして、黒頭巾ちゃんの目に見えたのは、古い窓枠と、木の床でした。
使い込まれた木の床は、かつて黒頭巾ちゃんが、熱心に磨いたものなのでした。
そして、窓の外には、大きく育ったヒマラヤ杉の梢に、白い雪が降り積もっていました。
その広い部屋の、中央正面に据えられたスピーカーは、とても大きく頑丈で、素晴らしい音を響かせてくれるのでした。
黒頭巾ちゃんは、その頃、いつも神様と寄り添っていました。
その頃からもう、黒頭巾ちゃんは、神様の言葉通りに生きて行こうと決めていたのでした。
黒頭巾ちゃんと神様は、いつもしっかりと抱き合いながら、ステレオの音を最大にして、スピーカーの目の前で唇を貪り合っていたのでした。
(神様。好きよ。好きよ。愛してる。わたしはあなたのためなら何でもするの。どんなことでも、するのよ)
黒頭巾ちゃんの目から涙が流れました。
ふと気がつくと、演奏はすでに終わっていて、黒頭巾ちゃんは涙を流したままホールの隅に立ち尽くしていました。
「全くこの奥さんは、飲むといやらしくなるだけじゃなくて、泣き上戸にもなるのかい。ほんと困ったもんだ」
道化師が背後でぶつぶつ言っています。
「うるさいわね。黙りなさい」
黒頭巾ちゃんは不機嫌に、道化師に命じました。
「へい。へい.....」
道化師はおどけながら一回りしました。
全く腹の立つやつです。
そのときでした。
「奥様。音楽はお気に召しましたでしょうか?」
指揮者が、目の前に立っていました。
「あ、マエストロ....、え、ええ、もちろん。本当に、素敵でした。だからわたし、泣いてしまって」
「おやおや。泣かせてしまったとは。それでは、お慰めしなくてはなりませんね」
指揮者に手を取られ、黒頭巾ちゃんは歩き始めました。
「こんなに人の少ないホールで演奏するなんて、僕は久しぶりですよ。でも、楽しい経験だったな。奥さんのように素敵な女性と知り合いにもなれましたしね」
「みんな、バカなのですわ。こんなに素晴らしい演奏に気がつかずに」
「みんな踊りに夢中ですから、仕方がないですよ。それに、みんな楽しそうに踊っていましたし、それで充分なんです。ワルツと言えど、ダンスミュージックなんですから。踊れないようなものを演奏しちゃまずいですからね。それに、僕も本当に楽しかったなあ。久しぶりで修業時代を思い出しました。さて、今夜の僕のステージはもう終わりです。あとは、若い修行中のものにまかせるとしますよ。せっかくの仮面舞踏会を、僕も楽しみたいですからね。奥さんのような方と.....」
黒頭巾ちゃんが指揮者を良く見ると、髪には白いものがかなり混じっており、品の良い長い指も、骨張っていました。
(今日の神様は、ずいぶん年配の方のようだわ)
黒頭巾ちゃんは、そんなことを思いながら、指揮者に誘われるままに、バルコニーを抜け、指揮者の部屋へと向かいました。
「へへっ、世界的な指揮者なんて言っても、ひと皮剥けばただの男だね。熟れた人妻にはかなわないってことださね」
道化師が下品に笑いながら、黒頭巾ちゃんと指揮者の後を、ついていきました。
そしてベッドの上でのプレイが済み、黒頭巾ちゃんが目を覚ましたとき、指揮者の神様は、もういませんでした。
窓の外を見上げると、ぽっかりときれいなお月様が出ていました。
満月でした。
まだ夜は続いているのです。
指揮者はきっと、別の奥さんを漁りに出かけてしまったのでしょう。
黒頭巾ちゃんは、ベッドを出ると、放り投げてあったドレスを身に纏い、髪を適当になでつけ、部屋を出ました。
バルコニーへ出ると、ホールからはにぎやかなワルツが聞こえてきます。
このワルツは、もうあのマエストロの指揮ではないらしく、黒頭巾ちゃんの耳にはもう魅力的に響いては来ませんでした。
(ダンスは、もう、いいや。疲れちゃったわ)
黒頭巾ちゃんはふらりと、広い廊下へと出て行きました。
すると、どこからか、叩き付けるようににぎやかなピアノの音が聞こえて来ました。
(なによ、これ。まさか)
黒頭巾ちゃんは憤然として、小ホールのドアを開けました。
中では、華やかなドレスを着た牝犬、牝猫、牝うさぎたちに囲まれて、おおかみがピアノに向かい、乱暴な手つきでストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を弾きまくっていたのでした。ずいぶんと楽しそうです。
「あら、黒頭巾。待ってたのよ。一体どこに行ってたのよ。ま、あなたのことだからロクなことしてなかったんだろうけどね」
赤ワインを手に、青頭巾ちゃんがすっかり酔っぱらった様子で、隣にいるドーベルマンに寄りかかりながら黒頭巾ちゃんに話しかけて来ました。
このドーベルマンは今夜の、青頭巾ちゃんの餌食なのに違いありません。
「あなたたちは、一体ここで何してたのよ?」
「え、別に?ダンスも疲れちゃったから、ここに来てみんなで和んでたのよ。そのうち、おかみがみんなにせがまれてピアノを弾き出したの」
そんな会話を、青頭巾ちゃんとしているうちに、派手なパフォーマンス付きで「ペトルーシュカ」の演奏が終わり、おおかみが黒頭巾ちゃんに気がつきました。
「おっ、黒頭巾。なんだかずいぶん楽しんで来たような顔だな?どうだっていいけど格好がもう乱れてボロボロだぞ」
「ほうって置いてよ、バカ」
黒頭巾ちゃんは、おおかみが相手なので、乱暴に答えました。
すると、取り巻きの女が言いました。
「黒頭巾さんったら、こわーい」
見ると、すっかり目をさましたらしいあのバカうさぎが、おおかみにしなだれかかるようにして甘えています。
「久しぶりですねえ、おおかみさん!あのときからわたし、おおかみさんにまた会えたらいいなぁって思ってたんですよ」
「ふうん、そうなのかい?ま、君のようなナイスバディな子にそう言ってもらえるなんて光栄だね」
おおかみがうさぎの目を見つめながら、ちょっと顎を持ち上げ、軽くキスをしました。
女たらしの面目躍如と言ったところです。まぁ、いつものことなのですが。
「そのドレスも可愛いね」
「あっバカ、あんた余計なことを」
黒頭巾は思わず舌打ちをしました。
(ドレスの話は鬼門なのに)
うさぎはおおかみにうっとりしながら、自分が着ているドレスに目を向けました。
「あら、そうかしら?おおかみさんにそう言っていただけるなんて....あれ?なんでわたしったらこんな見たこともないドレス着てるのかしら」
(まぁでも、今まで気がつかなかったなんて、やっぱり思った通り本物のバカね)
黒頭巾ちゃんは半分あきれながらうさぎの様子を見守っていました。
うさぎは、今初めて気がついたらしく、しげしげと自分のドレスを見、そしてふと顔をあげ、青頭巾ちゃんに目を止めました。
「あっあんた!なんでわたしのドレス着てるのよ!」
「あらうさぎさん。目を覚ましたみたいね?どうだっていいけど、何よこの安っぽいドレス!わたしだってこんなのごめんだわよ。でもねえ、騙しやすそうなバカはあんたしかいなかったんだもの」
「何ですってえ?」
青頭巾ちゃんはすっかり酔っぱらっていたのですが、バカうさぎの剣幕に逆ギレし、ワイングラスをポイと放り投げると、戦闘態勢に入りました。
うさぎもすっかり頭に血が上っているようで、側にいるおおかみに腕を抑えられています。そうじゃなかったらもうすでに飛びかかっているでしょう。
「ああもう、あっちの奥さんも、こっちの奥さんも、こりゃまた大変な方々ですな」
黒頭巾ちゃん付きの道化師が、青頭巾ちゃんのワイングラスをキャッチし、溜め息をつきました。
「ふんっ、なによこんなボロドレス。さっさと返してやるわよ!」
そう言いながら、青頭巾ちゃんはニヤリと笑って、ゆっくりと脱ぎ始めました。
青頭巾ちゃんの色っぽい体に、イタリア製の高級下着がしっとりと似合っています。
「相変わらずいい体してるなあ、青頭巾」
おおかみが青頭巾ちゃんのお尻を軽く撫でました。
すると、ドーベルマンがおおかみを睨みました。
おおかみは笑いながら、ドーベマンをいなすように言いました。
「なんだよ、いちいち真面目に考えるなよ?そんな風だと、人生楽しめないぜ?」
ドーベルマンは溜め息をつきながら、青頭巾の下着姿を、必死にタキシードのジャケットで隠そうとしていました。
もちろん青頭巾ちゃんは、そんなことおかまいなしです。
(青頭巾も、なんでいつもこういうタイプの、四角四面の真面目な男ばかり引っ掛けちゃうのかねえ?)
黒頭巾ちゃんは呆れたように思いました。
「さてと。当然、あんたも脱いでもらうからね」
黒頭巾ちゃんはうさぎに命じました。
「えっ、脱ぐって」
「当たり前じゃない。いますぐここで裸になって、青頭巾ちゃんにそのブルーのドレスをお返ししなさい」
「そ、そんな。いやよ、ここで脱ぐなんて」
うさぎちゃんは、まるで退路を探すかのように後ろをちら見し、後ずさりしながら言いました。
黒頭巾ちゃんは道化師に目配せし、うさぎが逃げられないよう、内側からドアに鍵をかけさせました。
おおかみも、おおかみの周囲にいた取り巻きの雌犬や牝猫たちも、面白そうに事の成り行きを見つめています。
「あんたねえ、自分からケンカを売って来たくせに何言ってるのよ?あははっ、それとも、人に見せられないようなみっともない下着でもつけてるんじゃないの?糸のほつれたような、ね」
青頭巾がからかうようにうさぎに言います。
うさぎは地団駄を踏んで悔しがりはじめました。
「そ、そんなことないわよっ。今すぐ、あんたの鼻先で脱いでやるわよ!」
「そうそう、その調子」
黒頭巾ちゃんが笑いながら言いました。
黒頭巾ちゃんは面白ければなんだっていいと思っているのです。
そして、飲み終えたシャンパングラスを放り出し、
「脱げ!脱げ!」
と、囃し立て始めました。
うさぎは憤怒の形相で、やけくそのようになってドレスを脱ぎ始めました。
すると、これがまた、意外なほど素敵な下着を身に着けています。
黒頭巾ちゃんはちょっと感心してしまいました。
「あら。意外だわ。まぁまぁいい下着、着てるじゃない?」
青頭巾ちゃんもそう思ったらしく、そういいながら、うさぎに近づいて行きました。
「これ、わたしも欲しかったのよ。フランス製でしょ。素敵ね」
「そ、そうです」
「うん、いいわぁ。わたしも欲しい!」
「は、はぁ....あっこれ、南青山で買ったんですよ」
褒められたせいか、うさぎが毒気を抜かれたように答え、そうして二人は楽しそうに、下着談議を始めました。
そこへ、ドンドンとドアを叩く音が聞こえてきました。
「あら、誰か、来たみたいよ」
黒頭巾がそういうと、道化師がドアを開けに行きました。
すると、汗だらけの柴犬が入って来ました。
遊びもしないで、ずいぶん一生懸命に青頭巾ちゃんを探していたみたいです。
「青頭巾!青頭巾、どこだ?あっ!その下着は!!俺が買ってやった下着じゃないか!っていうかなんでそんな格好をしているんだ!」
柴犬は転げるように青頭巾ちゃんの側にやってきました。
「ずいぶん探したんだぞ、青頭巾。一体どこにいたんだ?それにしても何だこの格好は」
「あーこれはね、えっと、ここにいるうさぎちゃんと下着の見せっこしてたのよ」
青頭巾は暗い顔になって、柴犬に弁明しています。
「青頭巾さん、誰です、この方は」
ドーベルマンが不審気に言いました。
「見ればわかるでしょ、はーあ」
そこへ、そうっと道化師が登場し、何やらドーベルマンに囁きながら、ドーベルマンを小ホールから連れ出してしまいました。
男同士のもめ事でも起こったら一大事です。
青頭巾ちゃんは、柴犬にブルーのドレスを着せられてしまい、すっかり意気消沈してしまいました。
「こいつに捕まっちゃったんじゃ、もうつまんない。わたし、帰るわ」
「そうねえ」
黒頭巾ちゃんも同意し、すっかり疲れてしまった黒頭巾ちゃんも、一緒に帰ることにしました。
普段から運動不足の黒頭巾ちゃんは、実際のところ、ちょっと遊べばもうくたくたなのです。
「帰るのか、黒頭巾」
おおかみが背後から話しかけてきます。
「うん。もう疲れちゃった。眠いの。だから帰るわ」
「そっか。今夜はもう満足した?」
「そうね。楽しかったわ」
「そうか。そりゃ良かった」
おおかみはいつになく、優しくそう言いました。
そうして、おおかみに腰を抱かれて、迎えの車のところまで行くと、黒頭巾ちゃんはもうすでに目がくっつきそうなほど眠くなってしまいました。
会場へ来た時と、同じ運転手が二人を迎えてくれました。
車に乗り込むと、運転手は来たときと同じように、半透明のスクリーンを下げ、薄く静かに音楽を流してくれました。
「マ・メール・ロワ」を。
黒頭巾ちゃんはおおかみの膝に頭を乗せ、そのまま眠ってしまいました。
この文書は以下の文書グループに登録されています。
黒頭巾ちゃん