呼び出し
瀬崎 虎彦

 これはあれに似ているな。バスに揺られながら、そう思う。
 小学校や中学校の頃、校内放送で職員室へ呼び出される感じ。名前を二度呼ばれて、「至急職員室へ来なさい」というあれに似ている。校内放送のスピーカーからザラっとした声が流れて、自分以外の誰もがいったい何をしたんだという顔をしてこっちを見ている。私は、今呼ばれた名前が本当に自分のものであったのかを、懸命に確認している。
 大抵ろくな内容ではない。ほめられる出来事であるとしても、わざわざ呼び出してそれを伝える必要もない(そして私はあまりほめられたことがない)。おそらくは当事者である私をその現場に呼び出す必要がある。あるいは、まったく理に適ったことだが、緊急で私に伝える用件があるのか(家からの連絡、近親者の不幸、など)。いずれにしても、ろくな内容ではないだろう。
 大人になって、もはや校内放送で呼び出されなくなった私は、仕事の関わりのある人から「ご相談申し上げたいことがあり」といわれると、少し身構えてしまう。その言葉自体にではなく、その言葉以外の選択肢に思いを馳せて身震いする。社会に出て仕事をし、人に仕事を頼んだり、頼まれたりというやり取りにも慣れたけれど、単純に「お願いしたい」というのではなくて、こういう言い方をされると、そこにまた別のニュアンスが生まれるのだ。
 会社でする仕事は、全体の目標に対してはチームプレーだけれど、個々のパフォーマンスにおいてはそうではない。やはり仕事の良くできる個人がそろっている方が、全体の意思決定もスムーズにすすむ。それは、仕事の段取りというものについて共通の理解というか、落としどころが分かっているからだろう。逆に全体のビジョンを描けない人間がいると、より余計な時間がかかる。たとえそれがよりよい解決に向かっているとしても、時間は金では買えない。個別の案件についてベストを目指してもしかたがない。60点もあれば80点もある。極端に100点を目指さない代わりに40点を出さないようにすることで、総合的な点数の平均としてではなく、個々の事象の揺れを最小限に収める。安定性を追及すること。それがよい仕事をするということなのだと理解している。
 だから理念ばかりで実務が出来ない人間や、ゴールが見えていない人間は、チームプレーにも個人プレーにも等しく向いていない。とはいえ、そういう人間と仕事をしなければならないことはよくある。環境に文句を言わないことは、よい仕事をする上での鉄則だ。文句を言われても文句を言わない。仕事の出来ない人間と組んだときには、独りで全体の仕事をすることもあるが、それは苦にならない。一緒にやっている、または誰かの分までやらされている、という印象を払拭すればなにも難しいことはない。
 だから頼まれごとを拒むことはない。それは一つの貸しであるし、好むと好まざるとに関わらず引き受けざるを得ない案件であることが多いためだ(同じ集団の中で依頼はは義務を意味する)。ご相談申し上げたい、といわれてそれが頼まれごとならよいのだが。それを考えていた。そうしたら小学校や中学校のころを少し思い出した。
 もうすぐ駅に着きそうだ。


散文(批評随筆小説等) 呼び出し Copyright 瀬崎 虎彦 2010-01-09 23:19:14
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