批評について
結城 森士
批評・評論をする資格は誰にでもある。しかし、
「芸術に正解はない」
ということを理解していない評論者は意外にも多い気がする。
さすがに
「自分の考えこそが答えだ!」
なんて思っている阿呆は多くないとは思うけれど(…時々いますね)。
批評と、恋愛相談は似ている。
恋愛に悩んで相談した時、でしゃばりはこういう。
「それはダメ!それは良い!それはダメ!」
しかしそのでしゃばりは、自分が正解なんでもなければ、自分がルールブックでもなく、自分が世の女性(もしくは男性)の代表でもないことを自覚していない。
自分だけの問題なら、自分の考えだけで白黒をつけることもあるだろう(むしろ、それしかない)。しかし、相手の問題にまで自分の価値観が通用すると思っているのは、見ていて痛々しい。もちろん、参考程度に意見を述べるというのなら問題はないのだが。
芸術の評論において、他人の作品を批評する行為そのものは大切だと思う。それは逆説的に、自分の方向性を明らかにすることであるから。また、自分の考えを相手に伝えると言うのはコミュニケーション(共同する行為)において、とても大切だ。
けれど批評を第三者に読ませる必要は、あるのだろうか?
批評とは本来、自分から作者に向かって発せられるものである。第三者に読ませることを目的とした批評というのは、何かが逆立ちした行為だと思う。それは何か、自己顕示欲による行為に思えてしまうのだ。批評は、あくまでも相手のために(逆説的には自分のために)すべきなのだから。批評祭を開くそうだが、目的がぶれないようにすることは心がけるべきだ。あくまでも対象作品の相手に向けて書かれていなければいけない。そして、「参考程度です」という謙虚な気持ちを忘れずに書いてほしいというのが個人的な願いである。上から目線で偉そうに他人の作品を批評するのは、幅広い視点やクリエイターとしての精神を持っているとはいえないだろう。
個人的には、自分が尊敬する人の批評はたくさん読みたいと思う。
恋愛に悩んだ時、自分の尊敬する人だったならどう対処するのかを知りたい、参考にしたいと思うのと同じ理由である。