<これは、死のようなモノ> 〜 川村透さんを悼む
藤原 実

ぼくは十代の頃に少し詩を書いていたのですが、それは数年で終わり、その後は十数年間詩作から遠ざかっていました。ふたたび詩を書くようになったきっかけは、十年ほど前、はじめてパソコンを購入し、パソコン通信のニフティサーブに入会し、そのなかのコンテンツのひとつであった「現代詩フォーラム」をのぞいてみたのがはじまりでした。

「現代詩フォーラム」にはとてもおもしろい人たちが集まってきていて、その中でもぼくが「このごろの詩はこうなのか」と驚いたのが、阿ト理恵さん、大村浩一さん、そして川村透さんの作品でした。ぼくには彼らの詩がよくわからなかったのです。


『六月の森カーゴ・カルト』 川村透

糸をたぐる。
アリアドネ、ミノタウロスの角
糸車。臼を碾く。臼、薄く薄く
もう、森に鳥は帰って来たのか
カーゴ・カルトは六月の森に棲む、湿った樹木のうろ、に巣喰う
染み染み。
トラウマ、検閲は間に合わない。現存在分析。カウチポテトの半熟トマト
ロードショーが始まる、寄席、舞台、狂言、薪能、桧の柱は半分だ。
屋根は組むな白蟻に噛まれる。
引っ掛け桟が垂木にすべるいろ、はにほへと西の羽目板は
ささくれている。
気をつけろいるぞ。見たぞ。獅子。無節。上小節。豹の無目だ。
髪に塗り込めた月の蜜から蟻蟻と浮かぶウェハースの骸なんだウロボロスの蛇に聞け
世界は濡れているか老人よ
鳥は帰って来たか
染み染み。
君に卵を生んでもらうまで洞窟はつづくんだ赤い糸
アリアドネ、ミノタウロスの城
茨の冠を糸車にくくる。くぐる、抜けてみろフリッパー、フリゲート
旗艦せよドルスス。カメラの記憶に蓋、月面基地煙るかぐや姫の灰。
歴史白紙拍手始まりノア
人魚姫はコペンハーゲン血も煮こごるゴーゴン鏡の中イコノクラスム・偶像破壊
石の血脈を継ぐのは誰もいなくなったメタボリズム菊竹吸う這うボクサーになれ
ハンガリーに行け串刺し教授からドラスティックにリビドー印象批評を引き出せ
炭素に変えろコックになれちんちんかくせ気をつけろ気をつけろ奔流に棲むモノ
六月の森に棲むもの濡れ濡れ始まりノア
染み染み。
ボサノバで進め頬寄せて掻きむしれタイコタイコ原虫孕む蟹味噌の流れる置屋に
鎮座してしおたれた潮御前のお題目比丘尼少女の法華万善同帰一乗妙法願人坊主
知恵者はジャック、レモンに頬寄せ蓮華は泥ろ比丘尼とピクニック
百鬼夜光映え四十八誓願不具不具と呪う声くすぶりくすぶり森が土が虫が生木が
匂う。
ずぶ濡れの曼陀羅でオリオンをデバカメするリアルなリバティーオンおんそわか
六欲天月抜けて常不軽菩薩も憤怒する孔雀明王ついばめ毒虫紅蓮菩薩悪阻の慈悲
で月経樹骨に根からむやスイセンとヒヤシンス木の根を踏む六月の森に棲むモノ
こんなにナルキッソスが腐り
匂う。
染み染み
六月の森に棲むもの
濡れ濡れ始まりノア
あそこは濡れているか老女よ。
鳥は帰って来たぞ魚の腹につぶつぶ卵を生んで越後
桃から生まれたカーゴ/カーゴ
カルト・カルト・ノア・ノア
キルト切るとケルト神話によると妖精写真家と少女は森へとロケハンに出かけ赤
ずきんちゃん老女は山に捨てよ濡れている森の口もと森に喰われるのさ六月の森
の毒林檎になれ白雪姫の髪飾り豹の顎に魔法の人丹、蒔絵もキスと蟻の酸に王子
の生卵剥く糸引き車、ミノタウロスよ迷宮の森よ。彼女の卵は夢精にまみれて目
覚める欠ける月満ちる月ここにいてくれ顔をくれ見せてくれ世界は胎盤剥離して
もう翡翠破水ぐらぐらの白身黄身赤み嘔吐卵光りあれ

満ちているかむせかえっているか磯臭くヘモグロビン赤く。潮騒の焚火を飛ぶ男
は魚の腹で青く鯖のようにねじれねじれの猫瓶にゼリービーンズ詰め詰めてチョ
コレート戦争をコーディネイトする焚書学級委員会、特権階級が導火線をねずみ
花火で仕切る金魚売りの粉乳。ミルクがブルーチーズになるまでなんて待てない
待てない還って来たか足摺りして足摺りして岬一郎俊寛僧都の指でピアノ悪徳な
んてこわくないさ鳥は帰って来たからカーゴ・カーゴミノタウロスはアリアドネ
の糸車スクゥイーズするオレンジ仕掛けでヒップホップジャンプ六月の森に鳥は
帰ってきた世界はこうして濡れて行くんだろうカーゴ・カーゴ
きみきみ。
染み染み
匂う。
すべてでした。


ふつうじぶんの理解を超えた印象をうけた作品というのは遠ざけてしまうのが、ぼくのクセなのですが、彼らのものに関しては読み捨てにできない何かがあって、「なんでこういう詩ができるのか?どこから生まれてくるのか?」と考え込み、苛立ち紛れに短いコメントを書き込みました。
「これはなんのための難解なのか?」「もっとふつうのひとに通じるコトバでかくべきだ」
思えばずいぶん失礼な物言いでしたが、このいいがかりのようなコメントに川村さんは、まっすぐな態度で答えてくださいました。


  フォーラム名:<現代詩フォーラム>
  会議室名 :( 2 )【赤の廊下】赤の部屋から 批評
  発言番号 :795(発言番号794へのコメント)
  発言者 :QZD04667 川村 透
  題名 :RE:トンデモお茶会招待詩
  登録日時 :98/02/26 11:30

 #00794 藤原 実さん はじめまして

 #1837 QZD04667 川村透 『六月の森カーゴ・カルト』

へのコメント、ありがとうございました。
「何のための難解か」という問は重いです。うまく言えないのですが、自分の中から
溢れてくる内圧に、どういうスタイルで取り組む事が、もっとも「それ」に誠実であ
りながら同時に読者との、そして世界との十分な「共犯関係」を結ぶという成果につ
ながるのだろうか?その、あがきが、「難解さ」をも、詩的なエンターテインメント
にサブリメート(昇華)してくれる事を望みながら。
    ・・・(中略)・・・
すべて、僕である「断片」、どうしようもなく私的でホログラフィックに暗示的な
カケラたちの奔流、ドライブするモノ、観音力疾走?
カケラとカケラたちがめまぐるしく動く熱気でそのボーダーが溶け重合されて行く
かのように密度が上がる。一瞬、磁気を帯びたかのように、どこか、をいっせいに
指さす、けれどまた混沌へと還って。
すべて、「僕である」モノ。どこか、「きみ」であるモノ。濡れ濡れの染み染みの
六月の森に棲むモノ、その始まりノア、から、渇望のカーゴカルトを経て癒される
満たされる予定調和?の帰結、タッチダウンまでの軌跡。それが、すべて。

森を後にして振り返ってみて、その軌跡を俯瞰してみると今の僕にはこんな風に見
えるみたいだ。ほんとうにそうなのか?それはわからない。なんでコンナモノが出
て来たのかワカラナイモノもある、けれど、ほぼこの軌跡はもう、刻み込まれ、も
う、動かしがたく存在してしまっている。分析的な読みで精読していくと、いくつ
かの「そうだったのか?」があり背中を走るモノを感じたりもする、けれど、それ
は、どこまで行っても疑問符のとれる事ではない。そんな風にまた、僕は「なにか
」をつのらせて、次の一歩を踏み出すのです。

だから、さらに、もっと前へ


同じことをしていたのではとてもかなわない、と思ったぼくは、じぶんは彼ら「難解派」に対抗する「明解派」なのだ、などと宣言し、詩や散文を投稿しはじめました。

なるべく平明なコトバを使う、イメージは暗喩としては用いず、即物的なオブジェとして並べる。ところどころに、陳腐な直喩、決まり文句や感傷的なフレーズを挿入したり、流行歌や他人の詩句、また自分自身の過去の作品の一部を引用する、などなど。
川村さんの書く、精緻で研ぎ澄まされたコトバたちが連なる詩とは逆の、わざとルーズで俗っぽいフォームでぼくは書くようになっていきました。

ぼくはいつも「じぶんにとって詩とは何なのか?」ということを考えずにはおられず、いつも迷い、詩に対する態度がふらふらしているようなことが続き、そうなると何も書けず、


  フォーラム名:<現代詩フォーラム>
  会議室名 :( 15 )《 SHIMIRIN`s ROOM 》清水鱗造の談話室
  発言番号 :745
  発言者 :QZD04667 川村 透
  題名 :【詩合わせ】「兄貴...を巡る考察」
  登録日時 :98/10/19 15:26


僕は、僕の中から溢れようとするモノを公にする手法として、「詩のようなモノ」として「ネットワークに預け」るのです。


というようなことをさらりと言って、詩に短歌に朗読にと旺盛な創作活動を続ける川村さんがうらやましかった。


川村さんは折に触れて、ぼくの書くものにコメントをくださったが、それらは、いつも丁寧で真摯で誠実なコトバで綴られていた。それに対して、ぼくはといえば、川村さんの詩に真正面から対峙することができず、「やっぱりワカラン」「まるで実験室で書かれたような詩だ」「これは川村さんの詩に対する批評ではなくて『川村さんの詩をわからないぼく自身』についてのコメントだ」などと書いては、逃げているばかりでした。


清水鱗造さんが「散乱光」と言い、一色真理さんが 「ドライ」と評した、川村さんのコトバの実験室のような詩の「カケラ」たちからぼくは身をかわし続け、そのためそれらはぼくの目を眩ませはしましたが、ぼくの胸につきささってくることはありませんでした。


が、そんなぼくが一度だけ川村さんの詩をまっすぐに受け入れられたときがあります。
2000年6月、オンデマンド出版という新しいやり方で「現代詩フォーラム文庫」の第一弾として発行された川村さんの処女詩集をぼくは手にしました。そして、その冒頭の一編を読んだとき、その詩のかけらたちが、まるで天啓のように、ぼくのよどんだアタマに光を差しこませたのです。


  『おはよう、アベニュー』川村 透


おはよう
僕たちの
アベニュー
愛という動詞を生きる
動物たち
ひとしず
始まりの助詞を


  を、
  おはよう
  僕たちの凍えた小指
  愛という形容詞をささやく
  彼と彼女のアベニュー
  いたずらな
  いきものたち


    が、
    おはよう
    僕という古ぼけた名詞
    青い鳥
    の羽根を濡らす
    つややかな助詞の
    ひとつぶひとつぶ


      に、
      おはよう
      君という健やかな動詞
      僕たちの花
      僕と彼女のアベニュー
      朝を歩く
      ヒヤシンスのペーブメント


        から、
        おはよう
        おはよう
        僕たちにカナリヤ
        僕たちは創る
        ヒヤシンスのギャラリーを


          を、
          おはよう
          始まりの韻を踏む
          始まりの助詞
          花のブレス


            を、
            おはよう
            僕たちに
            アベニュー


「僕という古ぼけた名詞」が「つややかな助詞の/ひとつぶひとつぶ」「始まりの助詞」によって生まれ変わってゆく・・・。
この出版が川村さんにとってはもちろん、当時のフォーラムの参加者やぼくにとっても新しい朝を告げているように感じたのでした。
ぼくは「ここから何か新しい詩の運動が始まるかもしれない」という高揚した気分になり、無断で、この詩をじぶんのサイトのトップページに引用したりしたのでした。
そうやって川村さんの詩集を紹介することで、ぼくも新しい詩の運動に少し参加できるような気になったのです。


その時から、いつか川村透論を書きたい、というのがじぶんのなかでの宿題のようなものになっていたのですが、その後も、川村さんの詩に対するぼくの理解はなかなか進まず、ぼくじしんの詩に対する態度も迷走をくりかえしたため、いまだに果たすことができずにいました。
今、川村さんの死を知って、たとえ不完全なものであったとしても何か書き、川村さんに読んでもらうべきだったのだ、という後悔の念に駆られております。


  フォーラム名:<現代詩フォーラム>
  会議室名 :( 2 )【赤の廊下】赤の部屋から 批評
  発言番号 :1985(発言番号1981へのコメント)
  発言者 :QZD04667 川村 透
  題名 :『Who am I?、ラ』
  登録日時 :99/11/20 08:14


僕は肉体的には確かに僕の内側から来るところの何かを、コトバという鏡に映してみようとする。それらは鏡に映る事でふつふつとした湿り気を奪い取られた欠け、ラと化し、さらに見る、という視線によって不確定性原理のごとく、あるいは変質し、あるいは位置そのものが消え失せる、そしてそんな「割れ、ラ」をそのまま、その迷路性をも含めた構造体として体の外へと絞り出し、空に放って見る。今度こそ、届くのか?


 死にかけたやつ、ラ
 僕たちの、欠け、ラ
 集まれば、割れ、ラ
 ラプソディ・ラ・ラ
               (HDD内未決定稿のフラグメントより)


マルセル・デュシャンの墓碑銘には<されど、死ぬのはいつも他人>と刻まれているといいます。ひとは死そのものを知ることはできない、とすれば川村さんの死もまた「死のようなモノ」であり、これですべてが完結したわけではなく、川村さんが残していかれた多くの「欠け、ラ」たち、その、きらめきの意味をぼくは問い続けていかなければならないのだと思います。





  フォーラム名:<現代詩フォーラム>
  会議室名 :( 2 )【赤の廊下】赤の部屋から 批評
  発言番号 :2226(発言番号2212へのコメント)
  発言者 :QZD04667 川村 透
  題名 :RE:詩人かぁ。。
  登録日時 :00/03/19 12:24


僕は書く事をやめる理由をまだ、手にしてはいない。それはとても寂しいことだ。僕は生きてゆくためにやむを得ず、また書きはじめるだろう。僕はひとり、なのかも知れない。





              (ナムサダルマプフンダリカサスートラ)  合掌。



散文(批評随筆小説等) <これは、死のようなモノ> 〜 川村透さんを悼む Copyright 藤原 実 2009-12-14 00:23:34
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