鍵穴のひと
恋月 ぴの

マッチ売りの少女にでもなった気分で
その鍵穴を覗くのがわたしの日課となってしまった

この街へ引っ越してきた当時はタバコ屋さんだったトタン屋根の並び
ちょっとしたお屋敷風の黒塀に
その鍵穴はある

通りすがりのわたしの名を呼ぶ声がして
その声は鍵穴の向こう側から聞こえてくるような気がして

引き寄せられるように覗いてみれば
たっぷりと薪のくべられた暖炉にあかあかと火はともり
ふかふかそうなソファの脇には
わたしの背丈ぐらいありそうなクリスマスツリー飾られていた

誰もいないのかな

しばらく覗いていたけど誰一人現れそうなく
ロマネスク調な天井からシャンデリアまばゆいくらい輝いていた

その日からだったと思う
黒塀を穿つ節穴ならぬ鍵穴を覗くようになったのは

雨の日も
そして風の日も
その鍵穴を覗き続け
ついには寝食を惜しむほど
わたしの日常では果たし得ぬ世界にこころ囚われてしまった

今朝も今朝で買ったばかりのダッフルコートを着込み
ルンルン気分で鍵穴を覗くと

どうしてなのか何時もとは全く異なる世界が目の前に拡がっていて
膝をがくがくさせて冥府行きフェリー乗り場から逃げ出してくる女がひとり

鼻水垂らす泣き顔があまりにもみすぼらしく
同情を誘うどころか失笑を買ってしまうほどに間抜けすぎて

誰なのかと目を凝らしてみれば、その女、それはわたしだった



自由詩 鍵穴のひと Copyright 恋月 ぴの 2009-11-24 17:34:16
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