世界は一瞬にして凍ることがある
殿岡秀秋

アンコールワットの回廊に
群れている阿修羅のレリーフは
湿気にふくらみ
熱帯の日に穿たれてひび割れながら
蛇の胴体を太い腕でつかみ
眉毛を盛りあげ
侵入者をにらんでいる
阿修羅たちはどの顔も
神との戦に怒っている
一千年以上も変わらずに

風がすりぬける間に
母の笑顔が消え
頬が凍り
目じりの染みが
地図のように浮きでる
見下ろす瞳に
呑みこまれて
子どものぼくは動けなくなる
母はまだ手をあげてはいないのに
ぼくの視界は狭くなり
辺りは暗くなる

母の顔を読む
額の縦皺と横皺との
交わるところに痕跡を探しても
どうして急に
表情を変えたのかわからない

岩の隙間で氷が膨れて
割れ目が拡がるように
ぼくの胸の襞は凍りつき
母の顔の雪解けで
溶けていく間に
細かく裂ける

いつも怒っている
阿修羅の顔は
凪いだ波のように
ぼくの気持ちを穏やかにする

人の表情が変わるだけで
ぼくをとりまく世界まで
凍ることがある
母がいなくなった空の下でも

扉をあける向こう側では
昨日と違う表情が
群れているかもしれない
という妄想によって
ぼくは病者である


自由詩 世界は一瞬にして凍ることがある Copyright 殿岡秀秋 2009-11-14 07:34:10
notebook Home 戻る