「波の声をきいて」(13)
月乃助

「そっか。そうだね。見つかっちゃったんだ」
 サッカーの練習から帰ってきたHiromiは、Sayoの話を聞くとそれだけ口にしPenneの頭をなでていた。
 Sayoは大きな旅行用のバッグを持ってくると、サイズを測り、それにPenneが入れられるのを確認していた。二人で運べば、そんなに大変ではないはず。海峡のある側の海岸線までは、歩いて15分くらいだった。Sayoは、この町に移っても臭いが嫌いで車を持つことがなかった。入り江にある港はやはり同じほどの距離だが、そこはボートの行き来が頻繁にあるし、まして、フェリーのような大型船も入ってくるので、そちらには連れて行かれない。万が一、Penneが戻って来ようとしたりしたら危険すぎるし。
 Sayoは、それでもそんなことがありもしないのは分かっている、野生の海峡に住む普通のアザラシが、Penneとひと時名づけられ、そのアザラシが今、海に戻るだけ。Penneにまた会ことは期待できそうもない。それは、Hiromiにも分かっているだろう。
 Sayoは最後に夕食用にSayoとHiromiのために買っておいたサカイ・サーモンの切り身をPenneにやると、生地のしっかりとしたその旅行カバンにアザラシを押し込み、ジッパーを半分ほど閉めた。Penneはそれほど抗うこともないのは、Hiromiがそう話をしてくれたためらしかった。ようやく、海に戻れる。
 北の国は夏の日が長く、まだ、夜の八時をまわっても日がある。
 カバンの紐を両側から二人で持って、持ち上げた。ずっしりとした重さが掌にあった。少し歩いては休みながら、Sayoは一人でPenneを背負って部屋に連れてきた日のことを思い出していた。あの時も、確か夕方だった。
 古い屋敷の多い住宅街の緑の庭を見ながら、海岸線の磯浜のあるところまでPenneを連れて行った。そこは、海岸に沿って走る遊歩道がありそこから階段で下りて行ける小さな浜で、夕暮れの寂しさを増すようにもう人影はなかった。
 海峡からの夜へ向かう冷たい潮風が、波と一緒にやってきていた。
 Penneは、久し振りの潮の香りに鞄の中で体を動かすのが、持っている紐にも伝わってくる。それは、海に住むものの、待ちわびたものを手にできる期待なのがSayoにも分かる。
 やっと帰れるという安堵の気持ち。それは自分のいるべき場所へ戻るという動物の帰巣本能がもたらすもの。
 磯浜は潮が満ちていて、静か過ぎる波が岩を洗っていた。
「ねえ、マム。もしまたどっかでアザラシがいてさ、あたしが声をかけたら、Penneのこと教えてくれるかな?それで、Penneがどうしてるか分かるかもね」
「Hiromi…」
「そんなの、おもしろくない。あたし…、あたしさ、灯台の島に戻りたくなった」
「…そうね、いつか戻るかもね」
 Sayoは、Hiromiと一緒にまた小さな島に暮らすそんな二人を思ってみた。そこには、群れなすアザラシ達が、昼のまどろみに磯の岩の上で寝転び、その横でSayoとHiromiが座っている。そんな光景だった。
 赤い屋根の家は、今どうなっているのだろう。誰か別な人が借りているのだろうか。
「ほら、お行き」
 海岸の岩の上にカバンを置き、Hiromiがジッパーを開けるとすぐにPenneはそこから這い出して、頭を上げると潮の香りを初めに、次に、目の前の波の飛沫を確かめているようだった。それでも、カバンから出てもHiromiの足元を離れようとしなかった。Hiromiは、
「ほら、もう行けって、それと、今度は網なんかにかかっちゃだめだからね。いつも助けてもらえると思ったら大間違いだよ」そう言って、海の方を指差した。
 Penneは、それでもためらいHiromiを見上げていた。
「早く行けって」
 娘が今度は少し声を荒げると、海鬼灯の繁茂する岩の上を進んで行き、それでも、また、一度止まって、振り向き、そのあとやっと水の中へとするっと身を滑り込ませて行った。
 そして、波の向こうに顔を出すと、二人の方に一度顔を向け泳ぎ去って行った。
 娘は、アザラシが戻ってくるとでも言うように、いつまでも岩の上で静かな海峡を見つめていた。
 Sayoは、海峡の遠くにアザラシの頭が一度浮き出るのを見たが、その後は、もう見ることがなかった。
 隣に立つ娘の小さな肩を抱きしめた。
 母親として娘と一緒に生き、何かを知る、そのためにこの町にいるのかもしれない。
 そして、柔らかな陽炎のような光に過ぎ行く夏の潮風を感じていた。それは、また、Sayoに海の声を運んできているようだった。(了)


散文(批評随筆小説等) 「波の声をきいて」(13) Copyright 月乃助 2009-10-30 04:14:27
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