汚れた川面を見つめている右目だけのアリサ
ホロウ・シカエルボク





日の暮れかけた堤防沿いに横座りして汚れた川面を見つめているアリサ
「時々この川がすごく美しい流れに見えることがあるわ」と彼女は言うのだ
アリサの左目は幼いころに父親に傘の先で突かれてまったく機能しなくなった、まるで生きてる目のように動くが
その存在意義はミルク飲み人形のそれとたいして違いはなく、ただまぶたの下でころころと転がっているだけであった
「この景色が誰かに見えないかって思う時があるの、わたしが見てるみたいにきらめくものに見えないかって」
アリサは自分の目の話をよくする、だけど自分の父親のことはめったに話すことはなく
他に家族がいるのかという問いについてはどちらともとれる笑みでしか答えなかった
「きらきらするのよ」
アリサの顔にはまるで表情というものがなく、綺麗だと思いながらそれを突き放してるみたいに見えた
「右目ってきっと光を見るためにある目なんだわ」
そんなことはない、と俺は言う―無粋だってことは充分判ってはいるけれど
「そんなことどうでもいいのよ」
アリサは川面から目を離す、まっすぐに俺の顔を見る、川面を離れた瞳は心まで届かせることのない悲しみを湛えているみたいに見える、俺は彼女の隣に座る、彼女は頭を俺の肩に乗せる
「わたしと同じ景色を見たいって言って」
見たいのかもな、と俺は答える
「おまえの右目は奇跡だよ、誰にもそんな風にこの川を見つめられはしない」
二羽のハトが俺たちの足元でパンくずを探している
「わたしの見ている世界はみんなうそ?それともほんとう?」
「そんなこと誰にもわからない、俺が見ているものだってそのどちらかでしかないのかもしれない」
「どちらかでなければいけないのかしら?」
「どちらかを求めているのならね」
「あなたは求める?」
俺は爪先でハトをからかいながら考える、そういや…
「求めたこと、ないな」
アリサは右目だけでまばたきをする―時々そんなふうになることがある
「どうして求めないの?」
俺は立ち上がる「どうしてだろう?動きやすいからかな、そう思わないか?」
どうかしら、とアリサは笑った
「街を歩いているとね、こっち見るなって言われることあるのよ、わたしはその人のことを見てもいないのに…きっと左目のせいね、こっちにはなにかを見るという意識はないから、どうしているのか自分でもよくわからないのよ」そして少し考え込む
「選ぼうとすれば、求めようとすれば、手に入らないものはそれだけ増えるのよね」
そう言うとアリサは頭を軽く振って風に遊ばれた髪を落ち着かせる、彼女の髪はとても聞き分けがいい
「帰りましょう」
堤防沿いを歩きながら俺は考えた
アリサ、おまえはその右目でどんなものを見ようとしているんだ?真実も嘘も、俺たちが人である以上一生判らないものなのかもしれんぜ…


ある日仕事から帰ってみると、アリサの姿がなかった―「生まれた街に行ってくる」と置手紙があった
俺はその手紙を広げたままピザを食った
アリサの分も一人で食べつくした
珈琲を二杯飲んでから手紙をたたんで机の引出しにしまった


アリサは二カ月の間帰ってこなかった


帰ってきたとき、アリサは少しすっきりした顔をしていた
「父親の墓に唾を吐きかけてきた」と言って笑った、そして泣いた
彼女の父親は彼女の母親に殺されたのだそうだ
彼女が家を飛び出して数ヶ月経ったころに
「左目のことなんかどうだってよかったのに」
アリサは何度もそう呟いては身体を震わせた


アリサが貨物列車に飛び込んだことを知ったのは次の日の昼ごろだった
馴染みの駅員が電話で知らせてくれた
「わたしのこと忘れないで」と書いた俺あての手紙が
彼女の血をしこたま吸い込んだポーチの中から出てきた
俺はその手紙を机の引出しにしまった




夕暮れ時の堤防沿いはもう、すました顔で座っているにはちょっとキツいくらい寒くなって
俺はダウンジャケットで身体を包みながら
太陽が完全に挫けるまでそこにそうしていた
汚れた川のおもてはやはり汚れたままであって
俺はただひとりで
汚れた川のおもてを見つめているだけだった
右目だけのアリサ
いまでも俺は




おまえと同じ景色を見たいなんて考えたりすることはないよ





自由詩 汚れた川面を見つめている右目だけのアリサ Copyright ホロウ・シカエルボク 2009-10-20 18:42:02
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