Babelogue
ホロウ・シカエルボク



晴天には雨を忘れるから、いつか遠い国で無残に殺された幼児のニュースも(そういえばそんなこともあったねえ)なんて言葉で語られるだけのものになった。ベッドの上で、音を出さずにテレビをつけて、ただ画面をじっと眺めていた。自分にとって短いとは言えない人生の中でたったひとつ、上手くやれることのひとつ、すなわち、「無為に時を過ごす」。手のひらから零れおちていくものが多くなるにしたがって、あらゆるもののボリュームを上げることをしなくなっていった。叔父さんの形見の、とても素敵な音がする年代物のコンポを持っていたけれど、気前のいいアンティーク・ショップに高値で引き取ってもらった。ボリュームのつまみをゼロにしたまま、ターンテーブルの上で回り続けてるレコードをただ眺めている状況なんて、どう考えたって精神衛生上よろしくないもの。回るだけのレコードからは音は聞こえない。だけど何度も針を落としてしまった。ちょっと普通じゃないと思われるかもしれないけど、そのあまり遠くない記憶はまるで最愛の誰かに別れを告げられたみたいな痛みを伴って心臓を烈しく締め付けてくる。だから気前のいいアンティーク・ショップに引き取ってもらった。いい値だったけれど、いくらだったか覚えていない。素敵な名前だったけれど、文字のひとつすらまるで思いだせない。ともかくそういうわけで休日の晴天に部屋で音のないテレビを眺める。近頃はどの番組も馬鹿みたいにテロップを流しまくるから、音なんか出さなくてもだいたいの進行は理解できる。そして、だいたいの進行以上に知りたいことがある番組なんて、たぶん母校の校庭の四葉のクローバーよりもっと少ない。いま画面では若い女性のアナウンサーだかタレントだかが(そこに区別が必要なのかどうかはよく判らないけれど)どこかの漁港で取れたカニの足を啜るように食べて、「おいしい」とハートつきの薄紅色の文字で言っている。おそらくは素っ頓狂な声を上げてテレビの前の連中の気を引こうとしているのだろうけど、この部屋のテレビの画面からうかがえる彼女の「ほっぺたがおちそう」という表情は、まったくの茶番にしか見えない。テレビ。テレビがどんなものでも見せてくれたのはいつ頃までだったろう?確かにそんな時代があったような気がする。あちらがそれを作り出せなくなったのか、こちらがそれを感じ取れなくなったのか、いったいどちらだろう。だけど、それがどちらかなんて重要なことだろうか?大河に架かる唯一の交通手段である巨大な橋が崩れたとき、それがどちら側の岸から崩れたのかなんてことにこだわる必要が果たしてあるだろうか?今日から数日分の疲れを先に背負い込んだような気がして、ベッドに横になる。もう一度眠るべきかもしれない。休日なのだ。時間は腐るほどある。一日を始めるにはまだ早すぎる。



散文(批評随筆小説等) Babelogue Copyright ホロウ・シカエルボク 2009-10-17 10:02:23
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