遠雷
ホロウ・シカエルボク




月の眠る丘に
最低限の荷物を隠して
遠雷が鼓膜を脅かす
暗がる夜に僕たちは
つながりと呼べるものの
一切を断ち切った
淋しくはなかった
悲しくもなかった
たまたまそこにあったものなど
望んで結ばれた
互いの瞳とは釣り合わないものだ


夜行列車に記された行先は
幼いころに読んだ
空想小説の舞台と同じ名前
はやる気持ちを抑えながら
厳かさを意識して
滑稽な十代のふたりは
静かに手を握り合って
欠伸を噛み殺した駅員から
朝露が跳ねたような
輝く切符を受け取った
ほら、僕たちの夢だ
生真面目に頷いて
乗り込んだ車両には僕らだけだった
窓の外を流れてゆく
二度とはない故郷を見ながら
君は涙をこらえていた


長期滞在型の安ホテルの
ただ座るために生きてるみたいな女主人に
しばらく暮らせるだけの金を払った
一年かけて溜めこんだ金額には
未来を微塵も不安に思わないだけの力があった
小さなベッドにふたりで寝ころんで
頬笑みあいながら眠った
天国を手に入れたみたいだと思った
目覚めたとき
君の寝顔がそこにあるのだとそう考えたら


僕は苦労してレストランの洗い場に滑り込み
君は画材屋の店員になった
僕らは毎日きちんと仕事に出かけ
店の人たちからの信頼を手に入れた
お互いのために恥ずかしくない自分になろうと
それだけのために必死になれたんだ
半年もすると僕はサラダやなんかを
盛り付ける係に昇格した
同じ日に
君の給料が少し上がって
僕らは初めて少し贅沢をすることに決めて
おっかなびっくり滑り込んだ
マディの流れる小さなバーで祝杯をあげた
初めて同じクラスになった日の
音楽の授業で習ったオペラの曲を
ハミングしながら部屋までの道を帰った


一年目にちょっとした事があって
女主人と仲良しになった
彼女の名前はアリスといった
率直に言って彼女には似ても似つかない名前だった、本人もそのことは判ってた
「そんなのあたしのせいじゃないもんね」と
よく開き直って話してたもんだった
ふたりが休みの日なんかに果物なんか持ってきてくれたり(時には酒だったりして)
近くの安い店なんかを教えてくれた
「あんたたち一緒になっちまえばいいじゃない」
と彼女はよく僕たちに言った、にこにこ笑いながら
「あんたたちは多分大丈夫だよ」
必ず最後にはそう言ってくれた
無責任な言い草だけどね、と
わざと意地悪な顔をしながら


三年目に僕の勤めているレストランの
年老いた店長が心臓麻痺で死んだとき
彼の次に古いのは僕だった
僕は突然その店を任されることになった
もう店の仕事のほとんどは把握していたから
僕もわりと誇らしい気持ちでオーナーの願いを受け入れた
君は画材屋を辞めて
お金の計算なんかを手伝ってくれることになった
僕は計算がてんで出来なかったから
初めはちょっとばたばたして
ひとり店を辞めた人なんかもいたけど
新しく働いてくれる人はすぐに見つかって
僕らは毎日遅くまで働いて
他のどこよりもいい店にしようと頑張った
そりゃあ簡単な話じゃなかったけれど
僕たちはまずまず上手くやっていた


五年目に僕たちは結婚した
店を一日閉めて
仲間をみんなあつめて結婚式をした
幸せすぎて嘘みたいだった
みんなが作ってくれたドレスはとても君に似合っていて
僕は胸がいっぱいでいくら飲んだって酔っぱらわなかった


七年目に子供が生まれた
アリスが子供の面倒を買って出てくれた
彼女へのこれまでとこれからの感謝をこめて
僕らは子供に彼女の名前をつけた


十年目に
僕らの店は本当にそこいらじゃ一番との評判を手にして
遠方からわざわざ食べにやってくる人もいた
僕らは毎日大忙しで
でも凄く満たされた気分で毎日を過ごした
そんなある日の午後
忙しい時間がちょうど一段落して
デザートやなんかを目当てにやってくるおなじみさんたちに
愛想を振りまきながら応対をしていたとき
店の入り口をくぐったひとりの初老の紳士が僕の名を呼んだ
僕は彼の方を見たが
それが誰かはすぐに判らなかった
だけど確かにその顔には見覚えがあって
思い出そうとしたとき
彼は拳銃を取り出して
僕の胸辺りを撃った
その時は上手く理解出来なかったのだけど
僕は身体の力を失い
ばたりと床に倒れた
それから
焼きごてを押しつけられたみたいな痛みが
左の胸のあたりで爆発した
誰かが店の奥から走り出してきた
「パパ!」とその声は言った
銃声がもうひとつして
僕は
何が起こったのか確かめなければと思ったけれど
そのうちに何も考えられなくなって
気づいたときは病院のベッドの上だった


医師の診察が終わると警部と名乗る男が僕のもとに来て
犯人は逮捕されました、と僕に言った
それだけで僕はもうすべてを理解した
彼の顔はあきらかにもうひとつ僕に告げるべきことを持っていた
僕は君のことを尋ねた
「残念ですが」
と彼は言った
残念ですが
残念ですが


病院を出たとき
僕は左腕が利かなくなっていた
そして
胸の中は空っぽだった
アリスがアパートの入口で
おいおい泣きながら僕のことを抱きしめた
僕は人形みたいに
彼女の悲しみを黙って聞いていた





昨日、アリスが死んだ
僕の腕はこんなだから
君との間に生まれたもうひとりのアリスは
施設に預けられることになって
僕は精一杯のことをして
彼女に一番いい服を着せてあげた
おとうさん、とアリスは言った
涙でぐしゃぐしゃになった顔で
まっすぐに僕を見つめて
駄目な僕の左手を
強く強く握りしめて
僕は彼女に向かって微笑んだ
彼女は綺麗に磨かれた車に乗って
僕の知らない街に連れて行かれた





安アパートの
すっかり汚れた窓には
ショールのように雨雲をまとった月
遠雷が聞こえていて
僕は静かにそれを聞いている













天国を手に入れたみたいだった
目覚めたとき
僕のそばで
無防備に微笑んでいた


君の

安らかな



寝顔







自由詩 遠雷 Copyright ホロウ・シカエルボク 2009-10-03 23:53:51
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