rapture of the deep
あすくれかおす
呼吸ばかりしていると部屋の中が夜になった。わずかに浮かんだ思考が次々と途切れていった。モノたちのほうから視界に飛び込んでくる。現象を信じられずに、目を閉じる。閉じるたんびに頭の中で、何度もシャッター音が鳴る。何度も。罪を。犯してるみたく。
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朗読じゃなくて、蝋燭でもよかった。ゆらゆらと熱を小さく留める。遠くで見つめる。溶けていく。近づきすぎると、非常に熱い。
タイガー魔法瓶に冷えたビールをつめる。近所をぶらつく。呪文を唱える。
唱えてみたのに、ですます調で笑える世界に、もう自分がいなかった。漫画の、はしがきの、登場人物紹介から、フェードアウトしている。ひとりきりになっている。深夜にダイハツミラを走らせる。適当な場所でボンネットを開ける。懐かしい触感がする。ラジエーターの熱。エンジンの匂い。いなくなったお父さんみたいだった。懐かしい。近づきすぎると、非常に熱い。
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しばらく歩いた。夜の花畑についた。僕にも、虫にも、誰にも、夜の花畑は求められていなかった。花束を作りすぎることができるのに。命を産み出すことができるのに。求められていないまま、待ちくたびれて朝になる。朝が花畑になるのではない。夜が朝になる。求めているのは花畑ではない。可能性を閉ざしているのは誰であるか、僕は、虫は、何が、可能性であるか。
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静けさを直訳できない。沈黙はすべてを解釈しようとする。ばらばらになった思考が、池の中で泡立って、また浮かんでくる。暗闇に目をそらしている。瞬きはいつかとまるだろうか。鼓動は急げば急ぐほど、時間をどんどん遅くした。近づくことさえできない。僕が熱くなればなるほど、魔法瓶のなかで、ビールがどんどん冷えていった。
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限りない土地に行こうと誰かがみんなに言った。程よい不安は踏み越えなければならない。誰もが花束を作りすぎればいいし、誰もが求め合っていればいい、と言った。だけどみんなは自分のことじゃないと思ったし、誰かは自分の役目じゃないと思った。そうして時々、自分が誰だか分からなくなって、漫画を書いたり散歩にでたりした。求められない世界を求めて。不可能をルールにして可能性を探した。ラジエーターの熱、エンジンの匂い、いなくなったお父さん、魔法瓶のビール、ですます調で笑える世界、蝋燭も朗読も、ぜんぶが可能なはずだったのに、急げば急ぐほど、どんどん自分を遅くした。そこにはもう花畑はなかった。花束を作りすぎることができたのに。
産み出すために、殺す、ということだって、可能だったはずなのに。
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もう一度ボンネットを開ける。ラジエーターをハンマーで壊す。宇宙人が傷つくみたく、きれいな緑の血が流れる。キーを回す。エンジンが起きる。
これからどこへ行くんだろう。頭のなかで、何度もシャッター音がなる。すがりついていた思考が、次々と剥がれていく。静けさを直訳できない。アクセル。クラッチは踏まない。回転数に沿ってギアを滑らせる。エンジンが燃える。燃えるたんびに、懐かしい匂いがする。