宗教のための宗教とは(3)
生田 稔
宗教のための宗教(3)
この主題にて,3稿目となる。宗教は何のためになるか、ということで書いているのであるが。先日来イスラエルという国名について、考察してみた。この名の文字どおりの意味は「神と相撲を取る」あるいは「神と戦う。」である。
「そうして神は彼にこう言われた。「あなたの名はヤコブであるが,もはやあなたの名はヤコブとは呼ばれない。あなたは,イスラエルととなえられることになる」。こうして[神]は彼の名をイスラエルと呼ばれるようになった。」 (創世記35章10節)
どんなエピソードがあるかは長く述べるとややこしいので、イスラエルという名のついたこの民族の神との格闘ぶりを皆さんはご存知であろう。アブラハムはイスラエルの先祖にあたる。ここのアブラハムから三代目にあたるのがヤコブであり、ヤコブの父はイサクであり、アブラハムの神イサクの神ヤコブの神という表現は大きな意味を持っている。現代世界にまで引き継がれてきた人類と神の戦いはこの3人から始まったのである。この取り決めは巧みに神の心と価値と意味を象徴的に表しているのである。
現在のイスラエル共和国はやっとの思いで、神と必死の戦いの結果現在の立場を保っている。このイスラエルの立場はひいては人類全部の立場ではなかろうか。聖書を研究する人は聖書予言が現代に成就していることを、知っている。現代の人びともまた、それがイスラエル人以外の人であろうと、神と戦わねばなれらないのではなかろうか。洪水・地震等もろもろの災害や犯罪・悪い習慣挙げればきりのないものと必死の戦いをしなければならない。人間の存在する限り永遠にこの戦は続く。
ひとつだけ逃れ道がある。御供えをすることである。必ずしも物を備えることでなく、言葉や文章でもよい。すべての神は御供えがお好きである。もし本当におられることがわかったら、どんな神様でもふさわしい御供えをなさいませ。私たちの神はエホバ神であり私は少なくとも自分にするだけの御供えをしている。考えてみれば女の子でも御供えが必要である。すべての人にはそれぞれふさわしい御供えが必要である。