愛と真実(1)
生田 稔

           

 この題で,この文章を執筆しようと思い立って、ペンを取り上げたのはさっきだ。この小説は私たち夫婦とクリスチャンの仲間たちが主人公である。特殊な社会がそしてやはり平凡な人間たちが主人公であるから、ある程度括愛や脚色は無理もない。だが熱意をこめて書こうと思う。
 私は二期目のクリスチャン生活を妻とともに始めようとしていた。「愛と真実」は私たちの仲間のクリスチャンの共通したスローガンであったのではないか。
 中本姉妹、妻との生活を始めて、妻の友達でいつしか知りあった年上のクリスチャンである。
 「ご主人が猛反対されるそうなの、今度ご主人と別居されるそうです。」と妻は言う。
 当時私たちの教会は上昇期にあった。人は新興宗教の一つと考えている。教会のほうでは真の神の組織と考えている。いずれにせよ自分の組織や会社を立てねば、どんな法人も会社もなりたつまい。
 イエスは確かに自分より親や兄弟や肉親を愛する者は自分にふさわしくはない、いっさいを捨てて我に従うようにと教えた。
 簡単にいえば、その教えに、ただ中本姉妹だけでなく世界中の我らが教会の人々はしたがった。中本姉妹とだいぶ後になって、「姉妹、ご主人を離れるべきではなかったのですよ。従うこともまた主に忠実なのですよ。」とお話したら、中本姉妹は涙を流してかなり反抗された、何を話されたかは覚えがない。
 別居した姉妹は小銭寿司に勤めだした。パート勤務で教会の奉仕者となり一月100時間を伝道活動に費やす。新しい全地が楽園となる聖書の約束を信じて、姉妹はそうしたのである。ふさわしいことである、と同時にご
主人にとっては痛恨この上ないことであった。
 夫婦のことは神や楽園とはおおよそ関係のないことではなかろうか。問題が違うのである。夫婦には宗教も主義も理想も本来関わりりのないことである。姉妹には二人子があったから、なおさらのことであった。ご主人は悪い宗教に凝ると考え、奥さんはこれこそ本当の道だと感じる。
 聖書に書かれているとおり。その人の敵はその家のものであるという言葉が聖書からは適用される。大切な点はこうである。神がおられ信じる者達に行動する者達に報いるということである。
 何のためにこのごとき書を作るのかと問われれば正義のためと答えざるを得ない。正義とは何か、要約すれば最大多数の最大幸福ではないか。不可能であるというのが常識という難物である。今までそういう例がないと常識では不可能とされる。演繹的にも帰納法的にも不可能なのである。
 ある程度勉学において解ったとしても、果されてはじめて物事は効果があったということができる。終わり良ければすべてよし。
 私たちの仲間のクリスチャンは、今日もまた家ゝを訪ねて、王国の音信を伝えているのである。私は家に居てこうして聖書と事実のつじつまを合わせようとしている。そのための一人の主人公中本姉妹が選ばれている。
 姉妹の信仰の戦いは私たち夫婦の結びつきとともに始まった。私と妻はささやかな小さな教会の部屋で数人の人々の集まる中で、結婚式によって結ばれた。中本姉妹は服装の仕事が本業なので、妻の衣装を手伝ってくださった。だが中本姉妹と同じように私たちも信仰の戦いをこれから始めなければならなかった。
 わしたちには健康で幸福な生活を営む権利がある。そのためにはこうして書くことや主張を述べる権利もある。この文章を書き続けることは、なかなか困難なことである。事実とは複雑な面を持つ、何を中心に述べるかはかなりの工夫の必要がある。
 私たちの結婚は1978年の3月18日であったから、その当時中本姉妹はご主人と別居されたばかりであった。クリスチャンの集会に出席するのをご主人が反対される。包丁を突き付けて脅されると中本姉妹はいう。
 でも今振り返って考えると、そこまでの反対を振り切って集会に出ることが、何か意味があるのだろうかということである。姉妹の住居の付近も、我々の伝道範囲であったから、家々を訪れると姉妹の親戚の人にも出会う。親せきの方の一人は、聖書という立派な教えが家庭の不幸をもたらすのはなぜか、と反論される。私はイエスの言葉である、親族のものより自分つまりイエスを愛さないものは自分つまりイエスにふさわしくないという言葉をその方に伝えたが、納得はされなかった。
常識ではその親戚の方の考えは正しいとされるだろう。
 でもそれはあくまで常識としてである。宗教は常識で割切れはしまい。古来常識が通った例はほとんどない。物事は常識外れなものである。数学が人生には役に立つようで決して役立たない。
 我々の宗教の輸血拒否も一時新聞をにぎわせたトピックであった。「エホバの証人の悲劇」という本の物語る私たちに関する見方、そして真実は、確かに問題提起をしており、一応に価値がある。「戸塚ヨットスクール」も悪いと言って新聞に取り上げられた。この組織もエホバの証人と同じ危険をはらんでいる.でもとても良いものは世界を探しても到底見つからない。そう考えて、うまく問題に対処するしかない。
 私もエホバの証人になって、問題のすべてといっていいほど、その自分の宗教の弱点を痛感した。でも47年この組織にとどまった。
いい加減の風呂にはいつも入っておれない。そう表現してもいい。だから心をすり減らし心臓病になったりした。
これからもすり減らしてゆくであろう。ようりょうのいいクリスチャンになろうとも思わない。だって神はちゃんといることも100%判ったから。つまり信仰の到達点には達したからである。
 


散文(批評随筆小説等) 愛と真実(1) Copyright 生田 稔 2009-09-07 11:11:11
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