水の匂い
within
月夜に現れたみずうみに 僕は裸になって
飛び込んだ。別に入水自殺をしようってわけじゃない。これは
ひとつの儀式のようなもので、言うなれば自然との同化、共有
されるファイルを独り占めしないようにするための一対の暗号
と鍵。
ひやりと凍結した水分子が皮膚の間近で融けてゆく。それほど
までに熱いのだ。超臨界流体のように、あらゆるものを腐食し、
僕の思考を分解する。友は子供を連れて去っていった。自ら先
兵となり、煤けた原子と格闘し、透明なジントニックをあおる。
理学部数学科の女子学生は分子生物学講座の講師の男にメール
を送る。友は疲れた身体を子供と眠る妻の横に投げ打つ。メー
ルの着信にも気付かずに。
はじめに声をかけたのは僕なのに 最後に残されたのも僕。話の
始まりと終わりが同じ点だなんて なんて循環小数。
目を醒ますために飲んだコーヒーのせいで 腹の具合がおかしく
なり トイレで思索に耽るはめになった。日焼けした僕の腕は野
生を取り戻そうとした際に返り血を浴びた。新鮮なクリムソンレ
ーキの肝臓を両手で高々と掲げる。古代の神聖な秘術、まるで幼
い頃に自覚もなくはじめたマスターベーションのように、白日に
さらされることはない。
朝、マックで無料のコーヒーを頼み 携帯を開く。思いついた
詩句をメモりながら、写真 一枚の写真 リストカットした写真
を送りつけてきたメランコリアなメス。クリムソンレーキの筋が、
一本、二本、三本、四本、僕は無造作に携帯を閉じ、ポケットに
ねじこむ。無料で配られる味の薄い水っぽいコーヒーの味は、
小さい頃に食べた駄菓子の味に遠く及ばない。