「水のいのち」について
……とある蛙

水のいのち−Soulを語って(宗教と関係ありませんから……と念のため)

この曲はもちろん作曲高田三郎、作詩高野喜久雄によるものです。1964年TBSの委嘱により作曲、初演は同年11月10日、山田和男指揮、日本合唱協会、川村深雪のピアノ伴奏で行われました。

作曲者の高田三郎氏は若いときにラマルティーヌの詩「湖水」に心打たれ、その後、高野喜久雄氏の詩の「海」(4曲目)の「見なさい。これを見なさい」の部分に出会い、湖水や海のさざなみを感じて、この組曲を作り始めたそうです。

ところで、高田氏も高野氏もキリスト者です。しかし、日本人にそれほど多くのキリスト者はいません。この歌もキリスト教をあまり意識しないでも十分歌えると思います。そのスタンスを前提にこの歌で感じたところを書いてゆきたいと思います。

水のいのちの意味について、作曲者はその解説で「The Life of Water」ではなく「The Soul of Water」であるとしています。魂とは何でしょうか。キリスト教の意味を抜きにしても、自分が手を丸めてそっと掬える幸せ、その暖かさを感じられる自分の中にあるもの、これが魂ではないでしょうか。つまり、生きていると言うことです。

※司馬遼太郎が意味もなく感極まって泣いている人の状態を「大きな涙袋になった」なる表現を使っていましたが、涙袋の主体となれる人間の持っている何かがSoulです。
ここでいう魂は私の全く独自の見解です。宗教でいう魂とかそういった類のものとは関係無く、まして救済の対象ではありません。幸せを感じながら生きているという事実、その評価の主体としての自分の中の何かという意味です。無くなれば当然生きている意味もなにもなくなります。

わずかな幸せを感じる魂はどこから来るかは分かりません。どうしてよいか分からない全ての生けるもの(立ちすくむもの)の上に平等に雨は降り注ぎます。雨はすべてのものに幸せの暖かさを感じさせるように降り注ぎます。

雨は水たまりになります。水たまりは現実の我々であり、天気が良くなればすぐ乾いてしまうほどはかないもので、しかも深みはありません。深さはなくても幸せを投影することは出来ます。水たまりの現実は空を写すことによって希望を我々に与えてくれます。

そして、水は川になります。川はさかのぼれません。空という希望を思い、山という雄大な結果を心に思い描きながら下へ下へと流れてゆきます。川の流れは誰も食い止められず、下流へ下流へと流れてゆきます。それは宿命であり意味を問う必要すらないのかも知れません。

そして、海です。高野喜久雄氏が海に関して2編の詩を書いたのはどのような意味でしょうか。全ての行くつく先、つまり、死のイメージと全ての生物の母である創世のイメージの両面を持っているからではないでしょうか。海は全ての魂の行くつく先で一度魂は消えます。しかし、消えた魂はまた希望に向かって再生してゆきます。個人の人生と 綿々と続く個人を超えた魂の歴史がそこには描かれてゆきます。
しかし、ちっぽけな我々は海のさざなみを感じるしかないのです。

(後記)
あまりにも壮大すぎて我々に歌えるのかという懸念は常にありますが、我々なりにこの大曲を歌うしかないと思います。
無理に力こぶを入れる必要はありません。
一人一人は手のひらに掬えるだけの幸せしか感じられないのですから。
※それ以上のものは手からこぼれ落ちます。

2008年6月14日 定期演奏会パンフレット所収


散文(批評随筆小説等) 「水のいのち」について Copyright ……とある蛙 2009-08-27 15:31:01
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