健やかなるときも辞めるときも
aidanico
まだぼくが明日と昨日の区別もつかないときの、とってもおさないころのはなし
風邪をひいた。微熱だったけれど息が詰まるようで、頭が靄のかかったようにぐらぐらとしている。何度も眠りに付こうとするのだけれど、中々どうして眠りへの道は遠い。
一、健やかなる時も辞めるときも
薄明るい中で気が付いた。眠りに落ちた記憶はないのに妙に冴え冴えとした心地だ。人生とはずっと眠りに落ちて夢を見ている状態のことで、本当の世界は死後にあるという。ならばここは死後の世界なのだろうか。体も嘘みたいに軽い。徹夜明けにとても体は疲れているのだけれど、体は変に気が抜けてふらふらとしている。そんな気分だ。常軌を逸っているというには余りにも当たり前で、だけれど背筋からうすらざむい風がとおるような。
ニ、知る知る見知る
おまえのなはなんというのだ。もう数十回も繰り返される質問に、未だに答えることができずにいる。名前を忘れてしまったのだろうか。まさかそんなことはない。記憶を辿るために、例えば毎朝食べる少し焦がしたトーストとヨーグルト、いつも使うシャンプーの種類、大好きな風景、一つ一つが鮮明なのに、それらを一つの枠として捉えようとするとたちまちにばらばらになって枠から剥がれ落ちてしまう。アナグラムの途中でもとの言葉がわからなくなったように、一つ一つの音は思い出せるのにつながらないのだ。
三、それを性だとひとはよぶ
ひとからもよく指摘を受けるのだが、普段からよくする癖で、つい目を擦ってしまう。眠たいのとか疲れてるのかとか一々声をかけられるのがとても鬱陶しくはあるのだが、擦った目を開けた後の、インキの風景に水を零したようにいっせいに滲んでいく様子と、幾重にも重なった光の道筋、今日みたいに天気のいい朝なんかは、思わぬシャッターチャンスを見つけることが出来る。夏の暑さはコンクリートから蜃気楼のように立ち込めていて、賑やかな人の影をつくりだす。眩しいのに、今はただ目を閉じたくないのだ。この日常の一瞬を少しでも長く見ていたい。
きのうときょねん、あしたとさらいねんのそのさきも、ぼくがみるふうけいはおなじでいられるかしら。