紅茶が冷めるまで
木屋 亞万

もうお姉さんになったので私は大人たちが飲む紅茶をもらえるようになりました。今までは色でごまかした甘い水を飲んでいましたが、今日はお母さんたちがいつも飲んでいるような高級なティーカップが私の前に置かれています。透き通ったこげ茶色の宝石が白いカップに注がれていきます。白い湯気が柔らかな点線になって茶色い水面をくるくる舞います。カップに顔を近づけるといつも遠かった紅茶の匂いが目と鼻の先から顔の中に入り込んできます。紅茶の匂いはとても温かくて大きな時計台のあるレンガの街のにおいがしました。紅葉と銀杏が結婚したら子どもはきっと紅茶のにおいがするのでしょう。
口をそっとカップに近づけたけれど湯気が意地悪して唇から奥に紅茶を入れさせてくれません。つるんと一口飲んだけれど熱すぎて味はわかりませんでした。舌がじんと熱に負けてしまって表面がびりびりしています。
紅茶が冷めるまで外で遊んでらっしゃいなとお母さんがおっしゃったので、庭で友達と遊んでいる妹のところへ行きました。妹は二人の友達とは遊ばないでじっと立っていました。妹の側に行ってどうしたのと尋ねると「ひつじ」と言いました。隣の家とうちの家の間にある塀を指差して何度も「ひつじ」と言うのです。その指は塀とうちの家の隙間を指差しているようでした。妹は私が「ひつじ」を見に行くまでその行動を続けるようなので、恐る恐る塀のところまで歩いていきました。
塀と壁の隙間には乗らなくなったお父さんの古い自転車がありました。その奥でもぞもぞと何かが動いているのが見えました。ひつじかなと思って、自転車と壁の隙間を身体を平たくして進んでいくと確かにそこには何かがいました。暗くてよく見えなかったけれど、そのひつじのようなものはどんどんと奥へ進んでいきます。わたしはそれを慌てて追いかけました。
ふと気付くと私は草原に立っていました。空には四匹のひつじが浮いています。川底から水面を流されていくひつじを眺めている気分でした。草原には蚊がたくさんいて、むき出しの足や手を狙ってふらふらと何匹も飛んでくるのでした。左の二の腕に止まった蚊を右手でぴしゃんと叩くと、蚊はつぶれて血のようなものが付きました。それはじんわりと温かくて少し赤みを帯びた茶色をしていました。それは紅茶でした。最初は温かかったのに少し冷めてしまった紅茶でした。秋が来て程よく熟したときの葉っぱの匂いがしました。その真ん中で蚊がつぶれていなければ、思い切り舌を出して舐めていたことでしょう。
あぁといくつかため息を吐いていると、空からお母さんの声が聞こえてきました。紅茶が冷めてしまいますよと言っています。浮かんでいる大きなひつじが邪魔でお母さんが見えません。どうしたのですと心配そうに聞いてくるので、一番邪魔な白い塊を指差して「ひつじ」と言いました。

お父さんが帰ってきて私たちを病院に連れて行きました。いろいろな大人たちがひつじと戦おうとしましたが、誰もひつじには届きませんでした。みんな自分の草原に迷い込んで、ひつじ取りがひつじになりました。
ティーカップの紅茶はもうすっかり冷めてしまって、乾き始めているでしょう。
たぶん今頃はカップの底に丸いレンガになってこびりついているに違いありません。


自由詩 紅茶が冷めるまで Copyright 木屋 亞万 2009-08-25 03:57:03
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