身体の海【5/6】自由に、自由を
A道化
『悲鳴をあげる身体』(鷲田清一著・PHP新書)の中に、ここ1ヶ月ほどピアッシング、体、痛みについて考えていた私をはっとさせた記述がある。
「そのような錯綜した身体状況の背後にあるのは、<自由>への渇きというものではないか」
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「じぶんの意のままになる身体という夢」
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「身体の絶対的な所有によって身体=自己をパーフェクトに支配したいという夢」
…ああ、そうか、自由への渇き、
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ここで述べられているのは、あくまでも「身体=自己」についてだ。
けれど、私にとってピアッシングは、思い通りにならない「身体=自己」を制御・管理しよう願望から、というよりも、それよりも広い、様々な、自分の「外側」に対して感じる不自由な思い、苦痛(例えば、欲しいものが手に入らないという出来事・欲しいものが失われてゆくという出来事・物事が思い通りにならないという状況)からなのだ。そうするとそれは、その不自由さ、その苦痛に対抗するようにして、唯一思い通りになる筈の、あるいは思い通りにしていい筈の「身体=自己」に痛みを与え、自由を確認する、という作業なのかもしれない。
それなら、好きな人にピアスを開けて欲しいと願うことは、こう説明できる。唯一自分だけが自由にしていい筈の「身体=自己」を明け渡すということ。その自由を差し出すということ。
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散文(批評随筆小説等)
身体の海【5/6】自由に、自由を
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A道化
2009-08-08 01:39:55