健気なケダモノに合掌
榊 慧

俺は絶対に周囲の人から良くは思われていないというのがあるので、自分としては必死によく思われようとする。しかし、八方美人をするな、といわれ嫌われないように嫌われないように、けれど万人に好かれようとはせずに、というのをなるだけ意識している。

俺は俺が金を食うだけの迷惑をかけるだけの人というのはもう嫌になるほど分かっているので出来るだけ早くに自立して両親などにお金を送りたいと考えていたりする。お世話になった恩返しに、というのでは全くなく。もう迷惑をかけてお金かけてそれで借りがあって、というのが重たくて重たくて、時には泣きたくなるくらい不安なので、そしてその不安は早く自立してお金を返していくことによっていくらか薄れるだろうと思っているので。
けれど親というのは子供のために迷惑を被ったりお金をかけられたりするものだといわれると、たしかにそりゃそうだとも思える。だとしたら俺のこのしんどさは何なのだ、となるけど。
せめて俺に努力する才能というのがあれば頭が良く勉強のできる子として親は多少の迷惑、負担は苦にならなかったかもしれない。
しかし俺は非常に怠け者であるとすでに自分でわかっているし、よく言えば興味の範囲が広い、悪く言えばひとつに絞れない(集中できない)性質、我慢ができない子なのか、そういったところなのでどうしようもなく迷惑は迷惑、負担は負担となるのだ。
そんな俺なものだから、当然周りに対して引け目は感じる。できることなら一人でひっそり、とも考えたことはあるけど多少無理をしながらでも社会生活を送っている以上現実問題としてそうもいかないことは分かる。結局俺はうまいことやれてるのだろうか、やれていないだろうな、と思いつつやっている。時々自分は何か間違っているのでは、おかしいのではと考えたりもする。今考えているので書いています。どうせ碌なもん(文章)じゃあないと分かっているのでこれは単なる自己満足の残骸です。俺は思考したかった。

とりあえず、俺が他人よりすべてにおいて劣っている、少なくとも勝っているものは一つもないというのはどうしようもない変えようのない事実でそれを何かにつけて覚えさせられたものだから俺はさっさと子供もつくらず(子孫を残すという俺のようなものでも一応はできることを放棄している点でもう駄目っちゃあ駄目なんだけど)死のうかとも思う。
俺は人並みよりも諦観が多かろうと思う。負け惜しむよりはまだそっちのがましだと俺は思うからだ。
実力の世界で、同情は誰も救わないんだから君らはどうせ俺のことをよく分からないと思うか馬鹿にするか、どっちにしろ置いて行くんだろう、好きにしたまえよ、俺はテキトーにしていくよ、という。違うかな。違うな。まあいい。

ただ生きていくしかない、というのがもう何でなのか意味が分からない。というかじれったい。いや、じれったくはない。山に登る理由がそこに山があるからだとすれば、じゃあなんで山があるの?と昔俺は思った。誰だってそう思うはずだと思う。(差別的な意味でなく。)なんだかんだありつつとりあえずは生きているという人たちばかりで、なんだかんだで死んでしまった(理由は千差万別だろう)人たちは今世界にはいないのだとすると、死ねばどうなるのかというのも長年の謎だろう。どうでもいいといえばいいが、ともかく俺もなんだかんだあって生きている。皆なんだかんだあってそれで生きているのに自分だけが不幸と思っている人、はまあ別にいいんだけど(大体の人は不幸になる、不幸だと思う理由となるものを持っていると俺は思っている。あとはそれに気づくか気づかないか、どう捉えてるかの違いだと思う。他人のことなんて分かりにくいものなんだから、自分だけが不幸と思うのも仕方ないのかもしれない。私もそういう時期がなかったとは言い切れない)、そうでなく“自分は他の人と違う”と“不幸”ぶってる人、というのはマジで嫌いだ。死んでほしいと思うくらい嫌悪することもある。その人が視界に入るだけで顔を顰めてしまうというのがわかるだろうか。たいていの人はそういう人を好きになれないと思う。まず「めんどくさい」と思う。俺はその後に「何も言い返せないくらいまくし立てて(もちろん正論で。)大勢の人の前でものすごい恥をかかせたい」と思う。
あと、全然たいしたことないのに自分だけが不幸だと思ってる人、というのもそれはそれで同等に私は「めんどくさい」と思う。セックスしたことないのに「恋っていいものだよ」と言ってきたりする人並みに。まだ片思いでしょ君、と苦笑するしかないけども。

俺はこれから先どうやっていこうかと多少なりとも悩んでいる。誰かに肯定してもらいたい、とかは思わないけれど無理やりどこかに押し込んでそこでやっていけ、と言われたいとは思う。俺はけっこうなマゾヒストだなあと今思った。サディストにとって相手はあくまでただの被害者、まったくの被害者でなければならなかった気がする。(じゃないとサディストは快楽を見出せず、サディストでなくなるそうだ。)…俺は被害者になりたくはないのでサディストとマゾヒストって両立しないなとまた今思った。

どうしたって俺は劣等とされる人間だと、悲観はしなくなった。悲観はしない。凡人、または凡人以下ですけどそれでよければ、というだけ。本心で。「俺でよければいいですが…」というのは何かにつけて唱えてる。そんで1日に10回くらい「まずかったな」「まずかったかな」と何かにつけて悩む。損していると思う。絶対不平等だ。

俺は人の話を理解できるが発言を求められたときに思考の過程の説明やなんやかんやを省いてしまっているのか、「は?」という態度をとられることが多い。それでなんとか補足説明して「ああ、」となる。このせいで俺は大分損をしている。まず、「は?」の時に「え、」と動揺するのでその後の発言が拙くなっていく。これは仕方ない。俺は劣等なので。で、拙い発言を聞くことによって低く見られるのだ。低く見られることが損なのか得なのかというのは置いといて、少なくとも正当な評価ではないよな、と思う。「だからそれを俺は言っていたんじゃないか」となる。単純にくやしいし時には腹が立つ。「わかれよ」と思うこともある。…なんだ、普通の15歳の感情じゃないか。
15歳なんて大概こんなもんだろうと今決着がついた。俺は15歳以上になったことがないので正確にはとりあえず俺がこんなもんだから大概はこんなもんだろうと見当をつけた。

俺はいつだって彼ら彼女らのように、できるものなら生きてみたかった。(どうやったって無理だけども。第一他人だし)あんなふうに好かれたいと今でも思う。俺は好かれているだろうか。どこのでもいいからとりあえず誰かには好かれているだろうか。嫌われていないだろうか。面倒がられていないだろうか。嫌われて、いないようになりたい。



散文(批評随筆小説等) 健気なケダモノに合掌 Copyright 榊 慧 2009-07-28 23:18:58
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