或る朝のまなざし
熊野とろろ
薄い雲が空から細かな雨を降らせている
明け方の曇り空の表情はあと二時間ほど経過したとしても
さして変わりはしないだろう
彼は窓を開けて煙草を吸う
二階の部屋であったが小高い丘に家が位置するため
漁村全体を眺望することが出来る
細やかで曖昧な雨を縫って霧が漁村を包み込んでいることが分かる
雲と靄の不明瞭な境目を目がけて
彼はゆっくりと浅く ふっと煙を口から燻らせた
*
見当通り、空は一向に表情を変えようとしなかった
居間の中央のテーブルに彼は座る
雨が晴れた朝よりもむしろ上品に静寂を演出する
彼は白い壁に掛けられたカレンダーを眺め
書き込まれた予定をなんとなしに見ている
母が書き込んだ母個人の予定だ
母は居間の隣、開け放たれた引き戸の和室でまだ寝息を立てている
*
純白の靄の奥で漁船が出発の笛を鳴らす
灯台の光だけが彼の視界に届く
彼はその海を想像し、潮と体液の薫りが全身を包む漁師たちを思い浮かべる
やかんから湯が沸き、蒸気が鳴る
彼にはそれが今日の日を始める号砲のように聴こえる
コーヒーを飲みながら微睡み
新聞屋の軽トラックが到着した音に気付く
ゆっくり階段を下りながら彼は想像する
薄い靄を歩く新聞配達 薄い靄の中の一軒の家 日常 それらへのまなざしなどを