PCを捨てよ 町へ出よう(2)
花形新次

 居酒屋『道草』のカウンターでホッケの焼き物と格闘しながら冷酒を飲んでいると、
隣の席に座った、やっぱり常連のキャバ嬢のマユミが、酔っ払って、僕に向かって
話しかけてきた。
 「あんた、目の見えない青年がアメリカの大きなピアノコンクールで優勝した話、
知ってる?」
それぐらいはテレビや新聞をあまり見ない僕でも知っていた。
 「知ってるよ。」
彼女は僕の答えなどはどうでもいい態で、話し続けた。
 「その記者会見でさあ、どっかの記者が一日だけ目が見えるとしたら何が見たいです
かって、その彼に質問してんのよ。」
彼女はコップにまだ半分ぐらいある酒を一気にあおった。
 「そんなのってある?」どうやら彼女はその質問に腹を立てているようだった。
 「生まれてから何も見たことがなくて、恐らくこれからも一生何も見られない人に対
して、何でも見ることができる人間がそんなこと訊くって、ゆるされるのってんの
よ。」彼女は飲み干したコップをドンとカウンターに置いた。
 「ねえ、あんたどう思うのよ。」彼女の目は完全にすわっていて、
僕は、できれば関わりたくないと思った。
しかし、彼女は「ねえ、ねえ、どうなのよ、あんた!」とジリジリと僕を追い詰めてきた。僕が答えに窮していると、
 「あんた、別に何とも思っちゃいないんだろ?ええ?」そういうと
彼女は「ケッ!」と吐き捨てるように、僕から視線を外し、店の親父に向かって
 「冷、もう一杯!」と怒鳴った。
そして、今度は自分の目の前のカウンターをじっと見つめながらブツブツ独り言を
話し出した。
 「ブサイクな女に、一日だけアンジェリーナ・ジョリーみたいな顔になれたら、
何がしたいですか?って聞いてごらんってんだ、もしその女が笑って答えたとしても、
それは本心じゃない、心の中じゃ泣いてんだ!」そう言うと、出されたコップ酒をまた
ぐいっとあおった。
 僕は彼女が何でそんなに怒っているのか理由は分からなかったが、
彼女の気持ちは分からないでもなかった。

 僕には障害を持つ一人息子がいる。自閉症という障害だ。
もし息子に障害がなかったら、自閉症児でなかったらというのは、
何度も頭の中を過ぎり、その度に「そんなことを考えて何になる。」と打ち消してきた
ことだ。そして、そんなことを考えないでも、充分この子を授かって幸せだと
思えるようになった。
きっと、ピアニストの青年もその両親も同じだと思う。と彼女に言おうと思ったとき、
彼女はカウンターに突っ伏して爆睡し始めていた。

 昔、この店の親父に悲劇のボクサーの話を聞かせてもらったことを思い出した。
ローマオリンピックのフライ級で銅メダリストに輝き、プロ転向後も抜群の
テクニックで勝ち続け、世界王座を嘱望された男。 
無敗のまま、時のフライ級世界王者アカバリョ相手にノンタイトルとはいえ
6回TKO勝ちし、さあ次は世界タイトルマッチだと本人も周囲も期待が高まっていた
中で判明した右目の網膜剥離。結局手術の甲斐もなく失明し、現役引退してしまった。
男の名は田辺清。

僕は、親父に話しかけた。
「田辺清に、もし網膜剥離にならなければ、あなたはどんな人生を送っていたで
しょうって訊いたら、彼は何と答えるだろう?」
親父は、これサービスといって、揚げ出し豆腐を僕の前に差し出しながら、
田辺清ではないから分からないが、と前置きした上で、
 「そんなこと考えたって仕方ない、って答えるんじゃないかね…。」と言った。
 「うん、きっとそうだね…。」僕は親父を見て二コリと微笑んだ。

 となりを見ると、彼女は本格的に大鼾をかいて寝ていた。
僕は彼女の肩に自分のスーツをかけてやった。親父は手を休め、その姿を眺めていた。






 




散文(批評随筆小説等) PCを捨てよ 町へ出よう(2) Copyright 花形新次 2009-07-19 00:04:56
notebook Home