東京少年 「国立」
虹村 凌

 高校三年になった。ローザと別れてから半年近くが経っていた。相変わらず、毎朝は辛く、苦しいものだった。それどころか、日に日に酷くなっていった。
 人間と言うのは、痛みと言うのはある程度耐える事が出来るが、痒みと言うのには耐える事が出来ないと思う。痛みが最初だけで慣れてしまえば大丈夫、などと言うつもりは無いが、痒みと言うものは、歯を食いしばってどうにか耐えられるものでは無いと思う。起きている間でさえ、余程の気合を見せて、何か物に八つ当たりでもしなければ耐え切る事の出来ない、猛烈な痒みを、寝ている間も耐えろというのは無理な話である。
 深爪気味に指の爪を切り揃え、寝具を目の細かく柔らかい生地に変え、室温を調整し、それでも尚、毎朝変わらずに顔は枕に張り付き、痛みに歯を食いしばりながら、シャワーで洗い流す。地元の皮膚科で貰った薬を塗って、何時もの様に学校に向かう。
 苦しい毎日であったが、学校が楽しい場所であった事が、俺を登校拒否にさせなかった。彼らは、変わらず俺と付き合ってくれた。厭な顔もしなかったし、それをネタにからかう事もしなかった。それが嬉しくて、どんなに酷いコンディションでも、なるべく学校に行く事にしていた。学校に行って、特に何をする訳でもない。ただ、気の合う友達と喋っている事が、本当に面白かったのだ。どれ程救われたかわからない。毎朝は辛かった。けれど、それさえ乗り切れば、毎日は楽しかった。
 それでも鏡に映る顔は、日に日に崩れ、剥がれきらない角質、老廃物、体液が段々と層を成し、自分でも一瞬誰かわからない程、崩れていっていた。それを見る度に、絶望的な気分にさせられた。
 表だって何か言われた事は無いが、陰で気持ち悪いと言われている事はわかっていた。実際に、街を歩いていて笑われたり、満員電車の中で隣に立った人にあからさまに厭そうな顔をされる、なんて事はしょっちゅうで、その度に、憎しみだとか、怒りだとか、悔しさだとか、そういった感情は膨れ上がったけれど、学校について楽しい話をしていれば、忘れる事が出来た。多分、学校がそれほど楽しくなければ、とっくに引きこもっていたと思う。
 もう一つ、俺を救ったものがある。それは、詩を書く、と言う行為だった。大したテクニックも無いし、知っている言葉は少ないけれど、思った事をノートに書きとめて、記していくと言う行為は、少なからず、破裂しそうな精神のガス抜きになっていた。別に公表する訳でもなく、ただひたすら、ノートに書き溜めていった。実に根暗な趣味だと思うが、暴発するよりゃマシだと思っていた。
 そんな風にして、辛く苦しい朝と楽しい日中を繰り返していたある日、授業の為に教室に入ると、川村の周りに人が集まっていた。川村は、漫画家を目指しているんだか何だか知らないが、とにかくマンガを描くのが上手な奴だった。その上、明るい人間なので、川村の周囲にはよく、彼に同調する人間が集まっていた。ただ、どうも細かい嘘を吐く、いわゆる虚言癖があるらしく、人としての信用は、あまり高い方ではなかった。
 そんな川村の周りに、今日もまた、人が集まっている。何事かと覗いてみると、どうやら女の話をしているようだ。川村に彼女が出来たらしく、その話で盛り上がっている。男子校だったし、何より周囲でそんな話を聞いたりしなかったので、みんな新鮮な話題に食いついているようだった。新鮮なのは川村の周囲にいる人間達だけで、サッカー部やバスケ部に所属している連中たちは、実に興味無さそうに(又はニヤニヤといやらしい目つきで)こちらを見ていた。
 どうやら、彼女は我が学園の女子校の生徒らしく、相当可愛いんだそうだ。どんな女の子か、イラストにしてくれと言うと、川村は嬉しそうに書き上げた。出来上がった絵を見て、その彼女を知っている友人らは、
「それは可愛く書きすぎだ」
 などと言ってキャッキャとはしゃいでいた。名前は、「荒巻 恵美」と言うらしい。俺はそれを横目で見て、自分にはあまり関係の無い事だと思い、さっさと席について、ノートと教科書を広げると、あまり興味が無いその会話に、何も考えずに適当な相槌を打っていた。
 それからしばらく経ったある日、何時も通り授業の空き時間を持て余した俺は、開いたばかりの誰もいない学生食堂で、2色パンを紙パックのコーヒー牛乳で流し込んでいると、授業をサボったのか、ただ単に遅刻して教室に入りそびれたのか、川村が姿を現した。川村は俺の姿を見るなり、ニヤニヤしながら近づいてきた。俺も暇していたし、別に川村を嫌っている訳じゃないので、態度を合わせてにこやかに対応した。
「おう、どうしたん?遅刻?」
「そうなんだよ。体調よく無くってさ」
 何の病気か知らないが、あまり体調が良く無いらしい。血だ反吐だ血反吐だと、年中吐いたりしているので、なんらかの病気らしいが、詳しい事は一切言わないので、よくわかっていないが、そこは会話を合わせなきゃいけないだろうと思う。
「大丈夫かよ?」
「まぁな。それより話聞いてくれね?」
 川村はそういうと、隣に座って「恋人」である「荒巻 恵美」の話をし始めた。最初は惚気話だけだったが、段々と真面目な話になり、ついには重たい話へと変化していった。
「実はさ、俺の彼女、レイプされた事あんだよ」
「はァ?」
 俺はその事実と、その出来事を他人に平気で言う川村の神経の両方に突っ込みを入れたつもりだったが、川村は前者だけだと思ったようだった。
「男に騙されてさ、そいつん家に遊びにいったら輪姦されて、それをビデオに撮られてさ」
「何だよそれ。立派な犯罪じゃねぇか」
 俺は構わず話を続けさせた。正直、興味はある。
「そうなんだよ。でも、事件にはしたくないって、結局そのままなんだ」
「それでいいのかよ…」
「アイツがそれでいいって言うから、俺もそれを受け入れる事にしたんだ」
「そうか…」
 そんな事件が身近で起こっているとは考えたくも無いが、実際にあったのなら仕方が無かろう。それを受け入れると言うのだから、黙って見守るしかないだろう。大体、俺が干渉できる事でも、するべき事でもない。喋り続ける川村を見ながら、そんな事を考えていた。そんな恋人が居る事を、羨まなかったと言えば、それは確実に嘘だ。確かに半年前はローザがいたが、別に痛手を負う程の別れじゃなかった。いや、別の意味では、大きな痛手を負っていたのだが。
 同じクラスの中路と言う奴から聞いた話よれば、ローザには元々彼氏がいて、そいつと別れたいが為の正当な理由を作る為に、粕村が俺を当て馬に使おうと提案したらしい。つまり、もともと俺はローザが彼氏と別れる為の手段だったに過ぎず、用が無くなったので重いとかなんだとか適当な理由をつけて別れた、と言う事らしい。
 それだけならまだ良かったのだが、粕村と言うのが小学校からの同級生で(尤も、一貫校だった為にそんな奴は大勢居たのだが)、高校に入るまでは比較的仲良くしていた奴だったのだ。むしろ、中学までは親友だったと言って差し支えないだろう。ところが、高校に入ってデビューしたくなったのか、急に今までの仲間を売って他のグループに入り込む様な奴に成り下がり、最近では俺の居ない所である事ない事を言って周り、俺の評価を貶めているようだった。人の悪口は、敵を作るが仲間を作るのにも使える、と思ったのだろう。
 粕村の話をそのまま俺に流す中路も中路だが、粕村の行動も信じられなかった。既に親友と呼べる間柄で無いとは言え、表面上は俺に笑いかけている粕村が、裏でそういう行動を取っているとなると、その十年近い間続いた友達関係は何だったのかと思いたくなる。彼が、新しい関係性を築き上げるのは彼の勝手だが、その為にそれまで仲良くしていた人間をダシに使う、と言う裏切りにあたいする行動はとても同調できるものではなく、彼を狡い屑としてしか見る事は出来なくなった。
 その一連の出来事で、人間を信じる事に疑問を感じる様になっていたのは事実で、それを教えてくれた中路も、正直信用しかねていた。
 ただ、俺自身の容姿が醜くなった事もあり、別に俺を捨てる人間が出てきても、おかしくは無いと思っていた。俺の友人が俺と同じ状況に置かれた時、今の彼らと同じように対応出来る自信は無かった。それくらい俺は醜くなっていた。だから、粕村にとって俺を捨てる絶好のタイミングだったのだろう。丁度、俺の精神が捻れ始めていた事もあり、拍車が掛かったのかも知れない。認める事は出来ないが、その程度の屑と十年も付き合っていた俺が悪いのだろう、とも結論付けていた。
 授業の終わを告げるチャイムと共に、生徒達が食堂へ飛び込んでくる。パン売り場は築地の魚市場を思わせるような盛況ぶりで、あっと言う間に人気のパンは売り切れてしまった。その様子を眺めながら、俺と川村は世界史の授業の為に、食堂を出て校舎の階段を昇り始めた。
 中庭から空を見上げると、重苦しい曇天であった。


散文(批評随筆小説等) 東京少年 「国立」 Copyright 虹村 凌 2009-07-11 00:46:07
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