もうひとりのぼくが囁く
殿岡秀秋

ぼくは小学校にはいるまで
母の隣に寝ていた
母が小料理屋を始めて
夜遅くまで帰ってこなくなった
ぼくらの面倒をみるためにきた叔父が
押入れにあがって布団を被った
ぼくも隣にはいる
ぼくは押入れ中の
ふすまに近い方に寝ることにした

寝る前の習慣として
トイレに行く
戻ってきて
押入れにあがる

布団をかぶってしばらくすると
なんだか出きれていない感じがする
それで押入れからおりて
再びトイレに向う

兄たちが畳の上に布団を敷いて寝ている
ぼくはふすまをあけて
廊下に出る

廊下の突き当たりにトイレがあって
明かりをつける
しかし出はしない

当たり前だと思って
ぼくは押入れにもどり
布団をかぶる

ぼくはもう寝ようと思った
しかしどこか遠くから
まだ残っているぞ
という声が聴こえてきた
ぼくはもう一度おりて
トイレに行った
不思議なことに
今度は少し出た

やはり出たじゃないか
ぼくの中に
もうひとりのぼくがいて
話しかけてくるのだ

もうこれでいいと思って
ぼくは押入れにあがり布団を被った
ところが押入れの闇から
まだという声が聴こえる

よく感じろ
まだ残っているだろう
ぼくはその声に耳をすます
声などするはずがない
しかし確かにぼくには聴こえる

ぼくはその言葉にしたがって
からだで感じようとすると
下腹の奥のあたりに
澱んだ液体が残っている気がした

もう一度だけだと思って
押入れをおりる
トイレに行っても何も出ない
やはり出ないじゃないか
と声には出さないで
もうひとりのぼくにいう

ところが布団を被ると
まだ残っているよ
よく感じてみろ
という声が聴こえる

かゆみのようなものが
下腹にわきおこって
すっきりさせたくなる
それでまたトイレに向う

もう出るわけがない
戻って布団を被ると
まだ残っているよ
という声がする
それを聴くと
痒くなるような気がする
ぼくは出し切ってしまいたくて
トイレに向うためにまた押入れをおりる

やはり出ないので
もう終わりにしようとおもうが
まだという声は止まらない
それでまた押入れをおりる
十数度もくりかえすと
わずかに出る瞬間があった
今度こそ出きった
と喜んで押入れにもどった

まだ
という声がする
ぼくは無視しようとした
もう眠るのだ

まだ残っているよ
ぼくはじっとして
聴かないふりをする

まだあるんだよ
と声はささやき続ける
嘘だ
ぼくはもう寝るんだ
やっと最後の一滴を出したのだから

おい終ってないよ
感じてみろよ
まだ残っているよ

しつこく言われると
残っていそうな気がした
いちどそうおもうと
もう行かないではいられなかった

やはり出ないじゃないか
戻ってぼくは声に出さないで言う
まだ残っているんだよ
というささやきがつづく

その声に抗えないで
ぼくは何度も
行ったり来たりを
繰り返した

叔父は壁を向いたまま
からかうように
また行くのか
とぼくの背中に声をかける

その言葉に応えずに
ぼくは往復した
三十度を超えただろう

寝ていた兄貴が
異変に気づいて
ぼくの名前を呼んだ
ぼくはもう止めにしなくてはならないと思った
最後にしようと思いながら
なおも二、三度往復した

ついに出きれた感じは得られないまま
ぼくは叔父にこちらを向いてもらって
その胸に頭をつけて
目をつむった

もうひとりのぼくは
ようやく黙った








自由詩 もうひとりのぼくが囁く Copyright 殿岡秀秋 2009-07-03 22:26:04
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