海と蟻
夏嶋 真子

渚を歩いていたときのことだ。

波打ち際に、細くなめらかな黒い曲線が描かれていた。
それは波の姿を象って視界の及ばぬ範囲へと延々と続き、
足元に目をやれば無数の点の集まりで、なにかの種を思わせた。
この奇妙な紋様の一粒一粒を観察すると
あるものは乾涸び、あるものは生死の狭間で瞬いている。


蟻だ。


太陽にじりじりと熱せられた砂浜をたくましい生命力で闊歩する蟻。
その一匹を目で追うと、どうしたことか海を目指すのだ。
まるでそれが目的であるかのように、波に吸い込まれ、打ち上げられ
死の紋様の一点になり、折れた触覚をぴくんと震わせ
命の淵を力なくもがいている。


何故?


浅瀬には、ミジンコほどの大きさほどしかない、
まだ体が透き通ったエビの幼生がいる。
蟻は、打ち上げられた彼らを狙って波打ち際で危険を冒しているのか?
いや違う。

むしろ捕食者は幼生たちの方だった。
水中で体長2ミリに及ばない幼生が、溺れた蟻を捕らえ喰らっている。 
それはさながら蟋蟀こおろぎに群がる蟻のようで、
小さな白の強者と、大きな黒のかつての強者、
反転されたネガが波の隙間に散らばっていく。


だが、それも黒い葬列の物語の一部でしかない。


夥しい数の蟻が、次々と波にのまれ、無意味に打ち上げられる。
波の力に抗えるはずもなく、足はもがれ、触覚は折れ
しだいに丸まって、乾涸びていく命の群れ。
羽をもつ蟻さえも、波から逃れ空へ飛び立とうとはしないのだ。


集団投身する蟻?


彼らのシステムに狂いが生じている。
命が命を放棄するように命じているのか?
そこに考えがおよんだ瞬間、
黒い紋様は幾重にも絡みつき私の心臓をギチギチと占めつけた。
素足の指先から這い上がってきた亡骸はカラカラと
乾いた音をたて転がりながら脳髄で反響するから、肩が震えだす。


組織 歯車 狂走 曲線 そして死。


怖ろしい、怖ろしいのだ。
彼らの行動に何か理由を与えてくれないか。
私は、彼ら中の一匹ではないといってくれないか。
手を強く握ってくれないか。

黒い帯は鎮魂歌になって渚を流れる。
奇怪な美しさに身じろぎもできず、私は釘付けになっていたが
やがて潮騒が感傷で滲んだ視線を
蟻と私の思考の及ばぬ遠く、水平線へと逃がす。


海。


太陽の欠片を溶かし銀に輝く魂の通り道。
衝動がよせ、静寂が返すその隙間に
すべての葛藤が内包されている。
私にはわからなくとも、
海は理由を知っているはずだ。

蟻と私の母である海。
次第に大きくなる波にかき消されていく浜辺の紋様は
波の描くたおやかな曲線に同調し、
蟻の亡骸は豊かな母の乳房へと帰っていく。
私はそれをいつまでも見送りつづけた。




やがて
生き残った一匹の蟻が、よろよろと生へと歩き始める。




海よ。





海よ。






自由詩 海と蟻 Copyright 夏嶋 真子 2009-07-02 12:34:50
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