朽ち木 陽射し 糸 眼鏡 花 枯草 それらに纏いし風
やおら朽ち木を陽射しが蠱惑し、遍く滾る圧に諭され窄む様子を哀しげに謳う蒼氓の俯瞰に秘めたる慈しみと蔑みと戸惑いを想う
怪訝な森浴の幻覚か
いや、確かにそこに射した
《《それは陽射しか
陽射しと呼ぶに相応しいか
果たして陽射しという認識は胎内に居た頃からの残像か
陽射しと云う語呂が反芻した音を拾っただけの残響か》》
形而上の陽射しなら脳を煽る冷たい圧は何とする
形而下の陽射しには確証の或る温もりがあったか
プリズムが幾何学的に何を伝えようが覆いたくなるのは
ネオフォビアの所為だからで言語は後退しない
いづれも其れは僕らがその特異性を以てして然るべき姿形になり、帰属せざるを得ない社会自体が都合良く搾取せしめ歪められたまま特異性を孕んだ事を否定するからか、何故か帰納しないので最早潜在的特異性の中に従属せざるを得ない社会は憂慮しながらも趨勢を見極めんと否定するかのような自己矛盾の坩堝に自らが嵌まったのだとしよう
自分の身体なのに自分の身体じゃない、なんというざらざらした質感
見てはいけないものを見たというような悔恨の糸
反面、異にした所作を許容するかような寛容の糸
それらを露骨に誇示する様も、それはきっと端から錯覚と云うもので何ら趨勢に繋がる糸ではない
それならばと、
日常を凹凸無く透して見ていたら日常眼鏡が曇る
曇った視界は拭き取るべきか否か
若しくは勇壮と外し裸を晒してみようか
其の儘、ありの儘で
あっ、煙ったい世界が今から始まったんだ、と思う
思えばいい
詰まりは
朽ちて咲かぬ花は花ではないという蒼氓に
《《花とは何ですか
それは本当に花ですか
花のような枯れ草に見間違ったのではないですか
花の美しさは美しいからでは無く儚いからではないですか》》
と改めて問い質してみたくなるのだ
だから翳した陽射しに戸惑う朽ち木は狼狽えずゆるりと朽ちて往くだけで
それはそれで湿潤たる花なのであろう
朽ち木は己のまるで陽射しに揺れる緑膵に埋もれ涙すミンダナオの風となり消え往くのだろう
やがては残された枯れ草が重なり合って互いを労わるようにカサカサと触れ合う音が聴こえるだろう
そしてその残響が消え往く頃には陽射しを陽射しと呼ぶに至る全ての過程を受容するのだろう