信じることを書ききっている八木重吉のオリジナリティ
イダヅカマコト

八木重吉の詩を読みました。

明治31年に生まれ、昭和2年に30歳の若さで亡くなった八木重吉は、死後20年近くたってから小林秀雄に見い出されました。
キリスト教の信仰に貫かれた彼の詩を源として今でも多くのポエムが生まれています。
(彼のことを知っているかどうかを問わず)

今回初めて八木重吉の詩を読んで思ったことは、その詩が書ききられているということでした。
書ききられているということは、彼の書く詩が<身体の表現>となっているということです。

例えば、『こどもが病む』という作品は、たった5行だけなのに彼の詩を説明するのに十分な存在があります。

こどもが病む

こどもが せきをする
このせきを癒そうとおもうだけになる
じぶんの顔が
巨(おお)きな顔になったような気がして
こどもの上に掩(おお)いかぶさろうとする


こどもの病を心配する親の顔が「巨きくなる」という様態、
そしてその顔を直接「掩いかぶ」せようという行動。
この両方を書ききって、はじめてこの詩は詩としての緊張感を保っています。

一つ一つの変化に一つ一つの結果をきちんと持たせる作業を、八木重吉はきちんと行っています。

変化と行動の対応性を整理と言っていいのなら、彼の詩は非常に整理されてクリアな光景を生み出します。

他にも、『花と空と祈り』という彼の遺稿集の無題の詩

うたうときは
太い感情のなみに
えんえんともえながらはしりたい
よろこびのときは
桃のひとつの花が
ひとつのはなのみになりきってさくように
かなしみのときは
柿の色づいた葉が落ちていく
そのみちみちたしずけさを
わたしのしずけさとしてうたいたい


この短い詩も、「うたうとき」「よろこびのとき」「かなしみのとき」の三つの時間それぞれに。きちんと「うた」いかたを交えています。
そして、一番最後の行を「うたいたい」と言い切ることで詩としての強さを強めています。

八木重吉の死後、日本はたくさんの、そして無意識の彼のフォロワーを生み出してきました。

しかし、誠実さが文体に現れていて、かつその言葉が生み出すイメージが透徹している点で八木重吉の詩は他のほとんどの人の詩と段違いの輝きがあります。

もっと読まれるべきで、そして自分自身の言葉の使い方を見直したくなる強さを持っているとおもいました。

八木重吉の詩集『秋の瞳』、『貧しき信徒』は青空文庫で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person13.html

ぜひお楽しみください。


散文(批評随筆小説等) 信じることを書ききっている八木重吉のオリジナリティ Copyright イダヅカマコト 2009-06-11 00:41:15
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