てにをはミュージアム
キリギリ
平成の詩壇がかくも無惨にしめじ付きまるで
腸詰めの中で育まれる豚の心性のような状況に陥って
しまったのは単に求められているものとあるものの食い違い
つまり良いものと良いとされるものの違いがバスケーツ内で
うごめくザリガニよろしく幹枝を伸ばしそれらを押し離してしまった
結果であることは言うまでもないが歌謡界でオリコンが音楽の質と
一致するわけではないのは今や小学生でも知っている事実であるが
RSPの楽曲はどれも私をその空間から追い出すのに抜群の効果を発揮するが
彼らが性懲りもなく無駄な努力や身体の揺らぎを継続出来るのも彼らを
賞賛する人の声が少なからずあることの証左でありあらゆる創作において
「良いもの」の矢印が一点どこかに向かっているわけではなく時流、世論、
雰囲気、空気、金銭的余裕などによって幾らでもぶれることは確かであり
今の詩を今の人間に見せたところで相づち1つ返ってこないのはまた事実
ではあるが気を落とさなくとも良い。沖縄がどこかに返還される頃には
貴方も誰かの腕の中、愛されているかもしれない。気を落とすことはない。
詩は言語表記の最先端であり貴方の殺風景を飾る遠慮がちなインテリア
ではない。そして淘汰の起こらないところに進化はない。被害妄想を紡ぐだけで
引き換えにザラメの毛布をもらえた時代は昭和で終わった糸ミミズとちくわぶで
一杯エンドリの酢みそ和えでもう一杯ゲイとノンケの尻相撲どちらか一方
だけが砂を被る時代はバブルと共に弾けた閉会式ばかりが途切れなく続く
2009年6月にありえないことはありえないという乾涸びた認識からの
バージョンアップありえないことはありえないという奴こそありえない
我々に必要なのは陽気さとワイパーである全ての経験やそこから受ける
感情の変化を「人それぞれだよね」と片付けることの出来るざっくり型の
社会でだべさだべさと幾ら語り合っても粉微塵であるユートピアは
個々の胸の内にのみあり差し出し合えば相対するあらゆる希望は善処という
言葉によって丸め込まれあらゆる厄災は自己責任という言葉で押し潰される
果たしてそうか?と柔らかく疑ってみても他人の痛みは分からない。
公園でスルー。コインランドリーでスルー。電車内でスルー。マクドナルドで
スルー。ドライビングシアターって今もあるの?次に貴方は「つまらないことを
聞くな」と言う。飽きもせずSK-IIを塗りたくり死守しようとする何かが
ワゴンセールで投げ売られている現状にもう神話もサイファも眠りに落ちて
退屈な夢の中メタファー強化月間に感受性を疑わない少女は強くあるために
致死量の毒を飲む。そんで死亡。