冷えたカレーライス
殿岡秀秋

小学校から帰ったぼくに
「今夜はお母さんの店で夕食だぞ」
と微笑みながら次兄がいう
長兄が帰ってきたところで
兄弟三人で冬の夕方の千住の町を
母の店に向かった

今夜は母と一緒の夕食だ
店で食事するのははじめてだ
どんな料理が出るのだろう
お客さんのようになるのかな
とぼくは想像していた

日曜日には
溜池に釣りに行こうと
兄たちの話も
足取りも
小魚のように跳ねていた

小料理屋について裏手にまわった
もうあたりは暗かった
店には明かりがついている
客の男の高い話し声がする
母の明るい声がこたえる

裏口の扉を少しあけて
長兄が遠慮がちに声をかけた
母が雇っている若い女の人が顔を見せた

やがて母が出てきて
「これを持っていきなさい」といって
いそいで店に戻った
瓶ビールが並ぶケースの上に
四角い食事盆が残された
中に三皿のカレーライスがあって
湯気があがる

長兄は食事盆をもって歩きだした
家へ戻る道で
ぼくらは一言もしゃべらなかった
だれも店でどのような夕食になるか
聞いてはいなかったが
それぞれに
期待していた食事の風景があった
澱んだ池の表面に出るガスのように
コトバになるまえの何かが
三人の胸に湧いた

卓袱台に長兄が三つの皿を並べた
歩く間にカレーライスは冷えていた
ぼくらは無言のまま食べた
期待した夕食との
あまりの落差に
コトバが喉へたどりつかない
そこへ
冷えたカレーとライスの塊が
小石のように落ちていく

裸電球が薄黄色い光を
卓袱台に円く落とす
光の輪の外は茶色くくすんでいた。

食事を終えると次兄はうずくまって
音の出の悪いラジオに
耳をつけて聞いていた
長兄はスタンドを点けて宿題をはじめた

ぼくはすることもなく
庭に面した暗い窓を
ぼんやり見ながら
昨日観た
紙芝居を思いだしていた。

大きな家の
犬小屋の前におかれた餌から
湯気が立っているのを
貧しい少年が
垣根の間から
羨ましそうに見ていた

粗末な格好をしているが
内気そうな少年の顔は美しかった

紙芝居から抜け出た
少年の顔が窓に現れる
少年の透き通る眼が
食べることはできても
消化されないで
ぼくの胸に残る
冷えたカレーライスを
さみしそうに見つめる

その眼とぼくの眼があうと
からだの奥から凍えてくる



自由詩 冷えたカレーライス Copyright 殿岡秀秋 2009-06-03 22:46:36
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