靴底の考察
バンブーブンバ

ボクの靴底は減りがはやい。そう感じているだけなのかもしれない。そもそも減ること自体、認識されていない。いつも結果だけだ。昨日と今日との違いはもちろん、今日と明日との違いさえ見当つかない。この論理で進めば、未来永劫見当つかないことになる。縮尺と知覚との間に根拠めいたものがあるのかもしれない。それがここでのテーマに足り得ないのかもしれない。ただ、あるとき、ふと堆積してきた結果の大きさに気づかされることになる。靴底は減ってしまったと。靴底そのものの形が損なわれるからなのだろうか。こんなはずではなかったと。そういうことなのだろうか。ここにはやはり、「不毛」がひしめく。宇宙ソラ。やはり宇宙ソラだ。それ自体にしたってそうだ。月は毎年3センチ地球から遠ざかり、地球の自転は10万年に1秒遅れると言われる。すると10億年前は一日が10時間だったことになる。10時間。14時間という堆積ヘリ。赤道直下に横たわるマーシャル諸島におかれては、美女がヤシの木陰でテクテク踊るさなかにも、太陽は、太陽風を豊艶と吐きながら、刻々と膨張を続けながら、50億年見据えつつこの星に接近している。50億年。堆積ヘリそのものは、見かけに拠らず、量を問わず、完璧にスケールアウトということだ。つまり、そういうことだ。こうしてみると、そうしたことがニワカに溢れかえっていることに気づく。住み慣れた街並みにしたって同じことだ。最たるものはこのボクにしたってそうだ。何が違う?昨日と今日と。目尻がいささか増えたのだろうか。黒子のとなりにまたしても小さな黒子が加えられたのだろうか。違いにも仲間入りできない。それらは靴底のヘリ程のものだ。時間。結局そんな話にしか辿り着かないのかもしれない。時間は靴底に現れている。街並みにも。目尻にも。黒子にもだ。知覚されないことがここでのテーマだったと今では思う。本当だろうか。本気でそんなことを知りたがっていたのだろうか。そうじゃないはずだ。ただ、ひたすらに靴底のヘリそのものを眺めていること。ヘリそのものの形に見惚れていただけなのかもしれない。ヘリとかどうとかそうしたこと自体がまずいのかもしれない。それにしても、歩けば歩くほどに、靴底のヘリは撒き散らされて行く。ボクのヘリのみならず、ボクらの数だけ、靴の数だけ、歩数の勘定だけヘリは日々蔓延し、堆積する。感じられない。まったくその後もボクのヘリの行末が感じられないというこのジレンマは何か。変わらない。そう、つまり、変わらないということだ。ただ、ささやかに「ココニソンザイシテイタ」という事実。伝えてくれる欠片というもの、それが靴底のヘリなのかもしれない。こうしてみると、すでに時間の幻想に絡め取られてしまったかのような訥々さに思わず天を仰ぎたくなった。眩しい。何か刺すような光だ。一息ふかして無意味に汚す。出口。そう、出口なのかもしれない。入口には出口がなくてはならない。文章を書くということもそうであってほしい。出口。ボクらの自律神経は「出口」を渇望している。それがボクらだからだ。「入口」の事象が「宇宙ソラ」だと喝破したくない。いや、そうあって欲しくない。出口のない入口ほど戦慄するものはないからだ。もどそう。そうだ。ボクは靴底の減りがはやい。ただそれだけに留めておくことに決めたんだ。


散文(批評随筆小説等) 靴底の考察 Copyright バンブーブンバ 2003-09-26 10:54:30
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